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闇呼ぶ声のするほうへ(長編小説)【第2章・貴方が私の名を呼んだ日】


闇呼ぶ声のするほうへ

長編小説(ジャンル:現代ファンタジー)です。
全体のあらすじ・目次は こちらの記事でご覧いただけます。
また、この記事の終わりにも各話へのリンクがあります。

前回のお話はこちら → 【第1章・私は黒いヘビの名を呼ぶ】 

【第2章・貴方が私の名を呼んだ日】

(19679字)

<1>大学デビュー失敗と水難、彼シャツのこと

(6470字)

『前略・佐倉へ、お元気ですか?
 私は見事、大学デビューに失敗しました。』

 これは、佐倉への初めての手紙の書き出しとして、どうなのか。
 それを考え、いつもそこで止まってしまう。

 ウケるとは、思うけれど。
 書き終わるまでにつくであろうため息の数を考えると、筆は進まなかった。

+++

真緒子まおこ、あそこから水が降ってくるのだ)

 声が聞こえ、レイがポンッ、と姿を現した。この世のものではない黒いヘビ、その姿はもちろん、私にしかえない。ただまれに、霊感を持つ人や小さな子には視えてしまうことがあるので、いつもは姿を見せないようにしてもらっている。
 そのレイが出てくる、つまり、緊急事態。
 といってもそれは、悲しくなるほどつまらない緊急事態だった。

 ここは、研究棟の裏手にひっそり通っている舗装路。『事務の人が呼んでいる』と伝言の伝言で教えられた場所から、事務の窓口まで行くのに最短ルートとなるこの道は、普段からあまり人気がない。
 ここを歩かせることが、彼女たちの目的だった、というわけで。

 気付かれないよう、目だけでレイが言ったほうを見ると、研究棟3階、おそらくトイレの窓から、ホースの口がわずかにのぞいている。
 私はため息をつき、不自然でない程度に、歩みを遅くした。

 要するに。
 あの窓から水が降って来て、偶然にも下を歩いていた私に、それが容赦なく降り注ぐ。
 そんな不幸な『事故』がこれから起こる、ということ。

「レイ。水が降ってきたら、消してもらってもいい?」
(わかったのだ)

 いままでいろいろ我慢して、目をつむってきた。
 
 私が男と遊んでる、金遣いが荒い、人を見下している、などという根も葉もない噂。
 配布プリントへの勝手な書き込み(ビッチ、無表情、お人形さん、成金、人の心がわからない冷酷人間)や、課題の提出先、講義室が急きょ変更になったとかいう嘘。
 学食でぶつかられトレーごとひっくり返してしまったり、研究棟の一室に嘘で呼び出され、外から『間違って』鍵をかけられたりもした。
 
 どれも大したことのない、普段、巷の魑魅魍魎や親戚の魑魅魍魎もどきに鍛えられている私にしてみれば、カワイイものだったけれど。
 対処や後片付けが、面倒で仕方がない。

 来た道を引き返し遠回りをすれば、波風立てず、穏便に済ませられる。だがそれでは、彼女らの気が収まらず、またなにかたくらむだろう。だからといって、こちらが水までかぶる義理なんかない。

 ……もういい。もう我慢しない。
 御崎真緒子みさきまおこに関わると呪われる、くらい、思わせてやろうか。

「よし。行くね」

 レイに向かって小さな声でつぶやくと、私は歩くスピードを上げた。上は見ないようにして。途中で「出てない……」「全開に……」とか言う女子の声が頭上からかすかに聞こえて、見上げると、窓からホースだけがにょっきりと出て、ぶんぶんと振られている。

 レイが『無』の力で、水を消してしまったのだ。
 理屈はわからないけれど、やっぱりレイはすごい。

「レイ、ありがとう」
(このままにしておくか?)

 窓からホースが引っ込んだのを見た私は、ニヤリと笑い、レイに言った。

「いま。解除して」

 途端に「きゃあっ」「止めて!」と、あの窓から悲鳴が上がり、私の目論見が上手くいったことがわかった。
 さて、あとは事務の窓口まで行くだけ。嘘なんだろうけれど、念のため。私は気分よく、颯爽と歩き出した。

「危ない!」

 突然、後ろから声がして。腕をつかまれ、引き止められた。
 振り返るとそこに、学生らしき男の人が立っていて。そのすぐあと、上からその人の頭めがけて、水が降ってくる。
 ばしゃばしゃばしゃ。その跳ね返りを私も浴び、ふたりしてぼう然としていると、水が止まり、わざとらしい声が聞こえてきた。

「すみませ~ん、手元が狂ってえ~。……あっ」

 窓から出した顔を速攻で引っ込めた女子は、たぶんダッシュで逃げた。彼は私の腕をつかんだ手を離し、顔の水をぬぐう。濡れてしまった長めの前髪を、両手でかきわけ、声のしたほうを見上げた。

「ひどいな。なんだ、あれ」

 それから彼は私のほうへ顔を向けると、瞬時にぎょっとした表情になり、すぐさま顔をそむけた。そして、がしっ、と再び私の腕をつかみ、引っ張りながら歩き出す。そんな彼に、私はついていくしかなかった。

「ごご、ごめん、その。俺んち、すぐ近くだから。とにかく急ごう」
「え、あの、」
「なるべく人目につかないように行くから」
「えっ?」


 彼の家、アパートは本当に、あきれるくらい近かった。大学の裏門から出てすぐの路地を曲がっただけでそこに着いて、二階建てアパートの一階、いちばん手前の部屋で、彼は鍵を取り出してドアを開けた。
 私を玄関に立たせ「ちょっと待ってて」と言い、タオルを何枚かと針金ハンガーに掛けられた男物の長袖シャツ、綿のズボンを部屋の畳の上に並べた。「どうぞ」と促され、靴を脱いで上がる。私のほうは幸い、スカートから下はそれほど濡れていない。

 畳に並べたのとは別にタオルとTシャツ、ジーンズを小脇に抱えた彼は、鍵を私に見せ、それも畳の上に置いた。

「これ、この部屋の鍵、ここに置くから。俺が出たら、内側から鍵かけて。着替えとか、なんならシャワーも使って? なんか買ってきてほしいもの、あるかな?」

 彼に圧倒されて、ことばが出なくなった私は、ふるふると首を振った。

「30分くらいで、大丈夫そう? 俺その間、買い物してくるから。じゃ、あとでね」

 彼は出てゆき、でもしばらくしてまた扉が開いた。

「鍵、閉めて」

 言われるがまま、扉を閉め、鍵をかける。がさごそと物音がして、そのあと足音が遠ざかっていった。

 ええと。
 この状況は、なんだろう……。

 混乱していたけれど、畳に置かれたタオルを手に取り、意外と濡れてしまっていた顔と髪を拭いた。初めての匂い。タオルにもこの部屋にも、それを感じる。それが臭くてイヤだ、というわけではない。
 鏡を探してユニットバス内のトイレにたどり着き、私は「ああ、なるほど」と思わず声をあげた。
 シフォンのブラウスが水を吸ってスッケスケ、キャミソールを通り越してブラジャーまで丸見えになっている。
 彼はこれを見て、あわててここに連れてきたのか。

 とはいえ。
 いやさすがに、ここでシャワーはちょっと、思う。
 いまここで裸になるなんて厳しい、無理。それにしてもこれがユニットバス、初めて見た。トイレとお風呂、洗面台までもが、こんな狭い空間にまとまってるなんて。佐倉の借りている部屋も、こんな感じなのかな。

 動揺し、取り留めのない思考に陥っていた私を正気に戻してくれたのは、レイだった。
 ポンッ、とそこに姿を見せ、そしてうなだれる。

(真緒子、すまなかったのだ、あれも消してしまえばよかったのだ)

 思い起こせば。
 レイは、あの水が私には当たらない、と踏んだのだ。
 だけど、彼に引き止められてしまって。

「しょうがないよ、私も油断してた。でも、レイのおかげで、先にやり返せたし。あいつらのほうが、私よりびしょ濡れだよね」

 我に返った私は、ブラウスだけを脱ぎ、付けたままのブラとキャミ、体からしっかり水気を取って、彼のシャツを借りることにした。
 薄いブルーの無地の、厚手のシャツに袖を通し、ボタンを留め。裾はスカートの中には入らないな、と思いそのままにし、袖を2回ほど折ってまくる。男物の割に着れてしまったのは、シャツのサイズがそれほど大きくはないからだろう。

 いまで言うところの彼シャツ、カレシではないけれど、という状況(大ざっぱに言えば)だったのだけれど。
 そのときの私は、そんな色っぽいことは、これっぽっちも考えてはいなかった。

+++

 玄関のドアをそっと開けると、すぐ脇の床に、濡れたシャツとズボンがくしゃりと丸まっていた。少し悩んでそれを取り上げ、玄関を上がってすぐの床に広げたタオルの上に、簡単にたたんで置く。扉を閉め、鍵は開けておいた。

 六畳の部屋と別に、ユニットバス、洗濯機、キッチンの板の間は一畳くらい。当時の私は、なんてコンパクトな部屋なんだ、という感想を持った。彼を待つ間どこにいたらいいのかわからなくて、キッチンの板の間に立って、あたりを眺める。

 あんまりじろじろ見てはいけない、と思いつつも、目は新鮮な情報に飢えていて。
 落ち着いて考えれば、ここは年頃の男子の部屋、しかもマンガじゃない、現実の男子の部屋だ。

 まず目に入ってきたのは、中にタオルケットが挟まれたまま、雑に二つ折にされた布団。部屋のかどに置かれたテレビ(いま思うと、ブラウン管だったからだ)。床に積まれている、専門書とおぼしき本はたぶん、学校の授業で買わされた参考書。その並びには、週刊のマンガ雑誌が何種類か。

 ピン……ポン、と、ドアチャイムがためらいがちに押された。レイが姿を消したのを確認してゆっくりとドアを開けると、彼がそこに立っていた。

「まだ30分経ってないけど、服がなかったから。入ってもいい?」

 自分の部屋なのに、入るのに私の許可を? あ、そうか。
 いろいろ、気を遣わせてしまった。

「はい、どうぞ。あの、なんかすみません」
「いや謝るのは、俺のほう。その前に、体は大丈夫? 冷えたかもと思って、少し買ってきたんだ。飲みながら話そう」

 彼はドアの足元に靴を挟み、そこから風が入ってくる。畳の部屋に入ると、立てかけてあった折りたたみの、小さなテーブルの短い足を出して組み立てて置き、そこに買ってきたものを並べていった。
 温かい缶コーヒーと缶の紅茶がいくつか、それと缶のポタージュ。

 そういえば、レイの力を使ってしまった。以前よりコントロール出来るようになったから、それほど空腹ではないけれど、注意しておかなくては、と思う。

 彼は「どうぞ、好きなの取って」と言い、私がなにかを手に取るまで、手を出さなかった。「いただきます」と声を掛け、ミルクティーの缶を選ぶ。その温かさが指に伝わり、しばらく手の中で転がしてしまう。体は思ったより、寒がっていたのかもしれない。

 まだ濡れているボサボサの髪をかき上げ、彼はブラックの缶コーヒーを選んでプルタブを開け、ごくり、と音を立てて飲んだ。首に掛けられたタオルのすき間から、上下する喉仏が見える。なんというか、全体的に骨ばっている……違う、痩せている、のか。身長は佐倉と同じくらいだった、かな。
 ひょろひょろしている、という印象の彼はあぐらで座り、私はその向かいに正座していた。

 ……そして、気になるのが。
 彼のまわりに、いくつも浮かんでいる……おそらく人の目には見えない、丸い光の玉。

 ポワポワしてキラキラ光るそれらが、彼の体にくっついたり離れたり、大きくなったり小さくなったり、現れたり消えたりを繰り返している。
 それは研究棟の裏からずっと、彼の周りにいて……悪いモノではないけれど、なんだろう、あれ。いまは見なかったことにして、あとでレイに訊こう。

 私も彼に遅れて缶のプルタブに手を掛け、ミルクティーに口をつけたところで。
 彼はふう、と息をつき、腰を上げて私と同じ正座に座り直す。そしてテーブルに学生証を出してから、口を開いた。

「俺、安達あだち、です。教育学部3年。それで……ごめん。水、かぶらせてしまって。そっち側、歩いていくほうに落ちる、と思ったんだ。俺が引き止めなければ濡れなかったのに、本当にごめん」

 彼がパシッと手を合わせ、頭なんか下げてきたので、私はあわてて否定した。

「いえっ、違うんです、巻き込んだのは私のほうで。あの水は、私がターゲットだったので」

 口に出してから、しまった、と思った。

「え、ターゲット? まさかとは思ったけどやっぱりあれ、故意なのか」
「いえ、その、ええと……」

 私はしょうがなく、一部の人間からやっかまれていることを、教えたのだけど。

「え、誰だよ、そんな……なんで、どうして? いつから?」

 こうなると、事情を説明しないと、納得してもらえないわけで。
 まあ、もういいよね。
 我慢するのやめよう、そう思ったところなんだし。

 そして私は彼に、入学してからいままで、この三か月に起こったことを説明しはじめ……いや、待って。全部を話す必要、ない。でも、どこから話したらいいんだろう?

+++

 たぶん私は、悪目立ち、というヤツをしてしまったんだと思う。

「御崎さんの服、かわいい~! どこで買ってるの~?」
「服? デパートの人がうちに来てくれて、」

 女子たちに囲まれ、自己紹介もそこそこに訊かれた質問に答えると、キーンと耳が痛くなるような音程の声で、同時に反応が返ってきた。

「うそぉ、すご~い」「外商ってこと~? お嬢サマなんだね~」「全部ブランドものなんだ~」「すっごいおしゃれ~」「なかよくしようね~」

 それからはよく、休み時間に話しかけられたり、お昼に誘われて一緒に学食に行ったりしたのだけど。彼女たちの会話に、私はさっぱりついていけなかった。

 確かに、うちには外商さんが来てくれている。それは昔からそうで、私は服をお店で買ったことがない。
 私は、ハンガーにかかった、ちゃんとコーディネートまでしてもらった服の中から、適当に、気分で選んで着てるだけ。服の値段もよくわかっていない。外商さんからの購入も含め、季節ごとの衣替えなど、そのすべてを立花さんが管理してくれている。

 立花さんは、昔から勤めてくれているさばさばした女性で、亡くなった母と同級生だと話していたことがある。高緒たかお叔母の服も彼女の管理下だし、たまに必要になる着物の着付けもお手の物。
 そして立花さんは、入学式直前に私を美容室に放り込んで髪を整えさせ、簡単なメイクの講習を受けさせた。それからは、メイクやそれに伴う洗顔、お手入れをサボろうとすると、立花さんの目がギラリと険しく光るので、立花さんが休みの日以外は一度もサボれたことがない。

 だから、いまの私の見た目はほぼすべて、立花さんによって、作られたもので。
 ハタから見た私は『ザ・お嬢様』で(誰かにそんなふうに言われた)、でもその実態は、服にもおしゃれにも興味のない、残念なお嬢様だった。

 そんなわけで、服やメイク、おしゃれに関する共通の話題で一緒に盛り上がれない私は、次第に誘われなくなっていき。
 5月にはもう、ひとりで食事をしていただろうか。

 そこから他の人と仲良くなる、そんなスキルは当然、持ち合わせておらず。
 授業で隣の席になれば世間話くらいはするけれど、基本ぼっち、という、昔からの懐かしいスタイルに落ち着いた。そういえば高校のときも、はじめの頃こんな感じだったような……。

 まあ、それはそれとして。
 ここまではまだ、よかったのだ。

 ここまでの経緯を、頭の中でざっとおさらいして。
 私は彼に、こんな説明をした。

「ええとですね。元々、同じ文学部1年生の女子にいろいろ、誤解、されていたんですけれど、」
「うん」

 よし、漢字二文字で処理できた。話が合わなくて感じ悪いと思われてる、なんて説明するよりスマート、我ながら素晴らしい。
 でも、ここからだ。

「……さらに別の誤解を、されてしまいまして。それがきっかけのようです」
「別の、誤解?」
「その……」

 なんて、言いづらい。
 今度は、どこからどこまで話すべきなんだろう。そう逡巡していると、彼が「あ」と声を上げた。

「まさか、内田のせい?」
「っ、内田先輩のこと、ご存じなんですか?」
「よくつるんでるよ。そう、だからそれで、名前は知ってたんだ」

 彼は正座を崩してあぐらに戻り、それから私を見てニコッ、と笑った。

「文学部1年の、御崎真緒子さん。あいつがよく話すもんだから、フルネームで覚えちゃったよ」

 彼が私の名を口にするのを、私は不思議な気持ちで聞いていた。

 思えば、それが。
 彼、安達玄あだちげんが、初めて私の名を呼んだ瞬間、だったのだ。



<2>公開告白とシャツの匂い、もったいないお願いのこと

(6227字)

 そこからは安達先輩の、「内田が御崎さんにかまうのを見て、その子たちがやっかんでくる、そういうことだよね? あいつ、モテるから……とばっちりもいいとこだな」ということばに、首をコクコクと縦に、立て続けに動かすばかりで。

「大体あいつ、御崎さんにフラれてるくせに。めげないってのは、なんなんだよあれ」

 私はピタリ、と首の動きを止めた。
 動揺が、さすがに伝わってしまったらしい。彼の表情から、マズかったかな、という気配が伝わってきた。

「俺は内田から、そう聞いたんだけど。断ったんだよね?」

 あれ? 聞いた、ということは。

「安達先輩はあのとき、あそこにいなかったんですか?」
「あのとき? あそこ、って」
「ランチタイムの学食、で。内田先輩が私に公開処刑、じゃない、公開告白をしたとき、です」

 ぱか、と安達先輩の口が開いて、そのままになり。私はいたたまれなくなって、缶のミルクティーの存在を思い出し、ひと口飲んだ。

+++

 内田先輩は、学食でぼっちメシを食べていた私に、ある日突然話しかけてきた。

 イヤな人ではなかった。むしろ、人から遠巻きにされていた私と食事をしてくれるという、ナイスガイで。よく他の女子から話しかけられていたし、モテる人なんだろうなあ、とは思っていた。

 背が高く、筋肉質。天然らしい巻き毛と、主張の強い眉。眼力が強く、笑顔がさわやかで眩しい。先輩の所属するサークルに再三誘われてそれを再三断るのに、彼のことをなんとも思っていない私でも、わずかに心痛を伴ったくらいだ。そんな人が、なんだって私と食事なんか、それも何度も……あ、ぼっちを見かねて、やさしさで。なるほど。

 でもなんだろう、このことばに出来ない違和感……それだけではない、ような。

「真緒子ちゃん、お願いがあるんだけど、」

 親しげな先輩に、すっかり下の名前で呼ばれていた私はそのとき、ああまたサークルの勧誘かな、家の仕事の手伝いで時間の余裕がないんですごめんなさい、と一気に言う心構えをし、先輩が続けた。

「俺と、付き合ってほしい」
「家の仕事のてつ、……付き合う? どちらへ、ですか?」
「いやそうじゃなくて。付き合うの、恋人として、俺と」

 淀みなく言われ、コイビト、という単語が、なかなか頭に入ってこなかった。
 コロッケカレーの、コロッケの切れ端とカレーをすくっていたスプーンから手を離し、紙ナフキンを手に取り、口を押さえる。

 まさか。
 これって、告白?

 内田先輩のほうに顔を向けると、先輩は微笑みを絶やさず、小首をかしげて尋ねてくる。

「ダメ?」
「……ダメ、です」

 動揺を、表情かおに出さないように。相手にそれを、悟られないように。
 それは、内外の魑魅魍魎を相手にしていたらいつの間にか、無意識に出来るようになっていて、そのときもそれは出来てしまったのだけど。
 内心かなり動揺していた私は、頭に他のことばが浮かばず、先輩の『ダメ』ということばをオウム返しに使うしかなかった。

「お試しでも、ダメかな?」

 お試し。その単語もそのとき、脳まで上手く届かなかったけれど、反射的に「ダメです」と返す。

「そっか、残念。でも、友達にはなってくれる?」
「は、あ」
「よかった、じゃ、また明日!」

 先に食べ終わった内田先輩はそう言って、さわやかに去っていった。
 だがしかし。ここはランチタイムで賑わう学食、途中途中で、きゃー、という女子の悲鳴のような歓声やどよめきが聞こえていたし、彼らからの視線を感じて、残っていたコロッケカレーの味はわからなくなるしで、レイに頼める状況だったら、速攻で頼んでいたと思う。

 いますぐ私の存在を、『無』にしてほしい、と。

 次の日の学食で。内田先輩は何事もなかったかのように私に話しかけ、そしてそのまま同じテーブルで、しょうが焼き定食を食べはじめた。
 あれ? 昨日告白されて、断って……確かに『また明日』とは言われたけれど、普通、気まずいとか気まずくないとか……あ、友達になった、から?
 それか、告白に対する認識の違いで、このくらいの軽さが、世間の一般常識?

 様々な疑問を抱いて、改めて先輩を観察するうちに。
 私は、先輩に感じていた『ことばに出来ない違和感』が、霊感のある私の目にしか視えないものであることに、気がついた。
 その正体はまだ、はっきりとはわからないけれど。先輩が私に告白してきたり、断っても変わりがないのは、それのせいかもしれない……。

+++

 もちろん、霊感で視た『違和感』のことは、安達先輩には話さなかった。

「知らなかった。公開告白やらかしてからの、公開失恋? なのに内田は、平気で同じテーブルに座ってくる? 俺なら無理だ、そんなの……」

 安達先輩がそう言って、それを聞いた私は、ちょっと安心してしまった。学内に友達のいない私は、いままで誰にも話せなかったし、告白に関して似たような感想を持ってくれて、私ばかりが変でおかしいわけではない、と思えた。

 霊感がある時点ですでに非常識、という自覚を持っていた私は、世間の普通、ということに対して、意外と引け目があったのかもしれない。

「それで、断片的に聞いていた人たちは、私が内田先輩のことをもてあそんでいる、そう誤解をしているみたいで」
「っ、もてあそんで? ああ、それでも一緒にメシ食ってて、それをそういうふうに見る奴もいるのか。あいつもあいつで、俺にも他の奴にも、『好きなんだけどな』とかデカい声で話すし、ったく」

 はあっ、と大きなため息をついた先輩が、一瞬視線をさまよわせ、缶コーヒーを口にする。それから静かに、私に尋ねた。

「その。御崎さんは、内田のこと。好き、だとか……そういうの、ないの?」
「ないです。一応礼儀だと思って、改めて考えてみたりもしたんですけど。ない、ですね」

 私は、きっぱりと答えた。いずれ、やっかんでくる彼女たちに言ってやろうと思っていたのもあって、すらすらと言えた。

「そ、っか。うん、わかった。じゃあ、なんとかしないとだな」

 彼が、なんでだかうれしそうに笑うのを見て、私もほっとしてしまう。
 なんだろう、癒し系。それに、味方になってくれるみたいだ。

「あともうひとつ、訊きたかったことがあって、あっ、やべ、時間! ちょっとごめん」

 彼はそう言って電話をかけはじめた(もちろん固定電話、何度も言うけどケータイすらなかった)。空で覚えているらしい番号をプッシュして、相手につながると「お疲れ様です、バイトの安達です。すみません、30分か1時間くらい遅れます、はい、なるべく早く行きます、はい、失礼します」と早口で話し、受話器を置いた。

「バイト先。ごめん、急かすようで悪いんだけど、家の人に迎えに来てもらう? 電話使ってくれていいから」
「あ……と、ちょうどその時間なので、連絡しなくても大丈夫です。それより、ごめんなさい。バイト、予定を狂わせてしまって」
「いや、なんかごめん、せっかく話、聞きはじめたところなのに」

 ふたりして缶の中身を飲み干し、立ち上がった。手提げの紙袋とビニールをもらって濡れたブラウスを入れ、それをバッグとともに手に提げ、部屋の外に出る。迎えを待つために一度学校に戻る私に、彼が裏門までついて来てくれることになり、並んで歩きはじめた。

「なにか対策、考えておくよ。明日は、学食には行く?」
「はい、行くと思います。対策、ですか」
「うん、なんとか出来ると思うんだ」
「あの、でも。今日のこと、内田先輩には、」
「話さない。聞いたらあいつ、余計なことしそうだし。なんにでも、まっすぐ突進するからな」

 まっすぐに、彼女たちを糾弾してしまうんだろう、それは私も思っていた。

「じゃあ、また明日」
「はい。いろいろ、ありがとうございました」

 彼と裏門で別れた私は、裏門から校内に少し入ったところにある木のそばに立ち、ボールペンとメモを取り出した。『裏門までお願いします』と書いて、私は付近の人の気配を確認し、小さくつぶやく。

「レイ」

 ポンッ、と姿を現した、小さな黒いヘビの姿は、もし舗道に人がいても、木の陰になって見えないはずだ。私はレイに、そのメモを咥えてもらう。

海藤かいとうさんに、お願いね」
(了解したのだ)

 音のない声の返事が聞こえ、レイの姿が消えた。私はふうっ、と息をつく。
 ふと、シャツからの匂いが届いて、私は改めて彼、安達先輩のことを思い出した。

 アイロンなんかされていない、ところどころシワシワの、綿の長袖シャツ。
 その着心地の良さを覚えた私は、またその匂いを吸い込み、それから大きく息を吐いた。

+++

 車で迎えに来た海藤さんは、私の『借りシャツ』姿に少しだけ驚いてみせたけれど、水をかぶってしまって借りた、とだけ説明した私に、それ以上なにも訊いてはこなかった。私の通学手段は、行きも帰りも海藤さんの運転する車だ。帰りの時間はいつも、朝のうちにお願いをしてある。
 だが今日のように予定が変わった場合は、本家に電話して言付かってもらうこともあったけれど、こうやってレイにお願いをしてしまうことが多かった。
 なんといっても迅速で楽。ポケベルを持つ必要を、まったく感じない。

 海藤さんは、私が大学に入学したのを機に、ほぼ私の専属運転手になっていた。レイのことも、姿は視えないけれど、存在を知っている。
 と、いうか。私になにかあったときのために、高緒叔母は以前から、海藤さんに事情を明かし、私の近くに置いていたのだそうで……だからあの、初めてレイの力を使って、どうしようもない空腹に襲われたとき、海藤さんが台所に来てくれたのは、偶然ではなかった。

 それくらい叔母に信頼されている海藤さんは、奥様に先立たれてから住み込みで御崎の家に勤めている。6歳の息子さんと離れに住んでいて、その息子さんと私は、数えるほどしか会ったことがない。マンガを貸す提案をしてみたけれど、「息子はどうしてか、格闘に興味があるんですよ」と海藤さんは答え、彼の興味のおもむくまま、いくつかの道場に通わせている、とのことだった。

「今日も助かりましたが。なんとも、もったいない気がしますね」

 海藤さんがさっきのメモを手に、いつもの温和な笑みを浮かべて、言った。私は後部座席で、バッグに忍ばせていたスティック状の激甘携帯食を齧りながら、それを聞いていた。

「ヘビ様にこんなことをお願いしてもいいのだろうかと、毎回思いますよ」
「そう、ですね。でも、ヘビ様がОKしてくれてるし、大丈夫です」

 口の中の物を飲み込んでから私は答え、海藤さんには視えないレイの体を撫でる。目を閉じないのでわかりにくいけれど、ちょっとだけ、気持ちよさそうに見えなくもない。

 でも、じゃあ。
 どんなことなら、ヘビ様にお願いしていいのか、それは私も知りたかった。

 私が高校を卒業し、大学に入学したところで。
 叔母との約束通り、私が能力に目覚めたことが、親戚一同に知らされた。

 だがそれは、危惧していたほどの大騒ぎにはならなかった。というのもその直前、妊娠している私の従姉の、これから産む子が能力者である、と周知されたからだ。
 私がレイからそれを聞いた何日か後には、親戚中に知れ渡っていたから、従姉はあの蛇神の巫女の夢を見てすぐに、叔母(高緒叔母ではない、もう二人いるの叔母のひとり。要するに、従姉の母親)に知らせたのだろう。私としてはラッキーなタイミングだった。
 
 週末や大学に行かない日、私は高緒叔母の仕事を手伝いながら、力の使い方を学んでいた。叔母に連れられて現場へ行き、叔母の仕事を教わり。たまに実践的なこともさせられる。
 といっても私は、レイにそれをお願いするだけだった。

「だが、なるべく的確に状況を判断し、先を見越しておくのは、私らの仕事だ」

 叔母は言った。

「それに、状況に余計な手を加えるのもどうかと、私は考えている。ヘビ様の力を及ぼすのは最小限に留めておくべきだろう」

 そのための、状況の見極め方。相手にするのはどんな怪異なのか、または怪異ではないのか。依頼者とそれらとの関係。依頼者の建て前の望みと、本当の望み。怪異たちの望み、目的。
 様々な入り組んだ情報を、感情を入れずに理解し、処理していく。
 どうやら私は、それを楽しい、と思ってしまったようで。
 叔母に付いて仕事に向かうのが、まったく苦にならなかった。

+++

 家に帰って着替え、立花さんに彼のシャツを渡し、借りた物なのできれいにして返したい、とお願いをした。早々にお風呂に入ることにし、水をぶっかけられた髪と体を丁寧に洗ってから、湯船に身を沈ませる。

「黒。闇、無、無音……」

 レイの力を象徴することばを、指を折りながらつぶやくと、ポンッと音をさせてレイが姿を見せた。

「出てくるときは、ポンッ、て音がするよね」
(人がみな驚くから、音を立てるようになったのだ)
「へえ、そうなんだ」

 宙に浮いたレイに、ふざけてお湯をかけてみたけれど、お湯はレイをすり抜ける。
 そのかわり、じゃないけれど。私はレイの頭を撫でた。
 どうしてなのか、いまだにわからないが……私はレイに、触ることが出来る。

「今日、レイにあんなこと頼んでしまったけど、よかったのかな?」
(なにか問題があるのか?)
「だって仕返し、言ってみれば復讐、だよ? 悪党っぽくない?」
(悪党?)
「彼女たちからすれば私、悪役だよねえ」

 レイは、今回はうなだれなかった。

(真緒子からすれば、水をけしかけたあの者たちが悪党なのだ。それに小さくはあるが、あの者たちにじゃが寄っていたのだ)
「え、それはマズいよね」
(あの者たちが呼び寄せているのだ。だが水をかぶって、多少散ったのだ)

 もしかしたら、嫉妬などからも生まれるいんの気が、よくないものを呼んでしまったのかもしれない。実は彼女たちから、過剰な陰の気の気配は、ずっと感じていた。
 私のせいで、それを成長させてしまったのだろうか。そんなの、正直知ったことではないけれど、面倒は避けたい。今度、注意して視てみなければ。

 ふと、そんな陰の気とは正反対の性質の、あのポワポワした丸い玉のことを思い出した。

「レイ、安達先輩の周りにいた、あれはなに?」
(あれは、たまなのだ)
「玉って、そのまんまか」
(人の言う木霊こだまと、それ以外のたまもいるのだ)
「あっ、そうか。たま……霊魂、じゃなくて、精霊みたいなもの、かな?」
(あの男は、ああいったものに好かれるたちなのだ)

 なるほど、確かに。彼に懐いているような動き方だった気がする。

「レイは? 安達先輩のこと、どう感じるの?」
(真緒子の次に、居心地が良さそうではあるのだ)

 そうなのか。不思議な人……だけど本人は、そういったことに気付いていなさそうだ。

『なにか対策、考えておくよ』

 対策とは、なんだろう。
 そういえば、内田先輩が背負っている『違和感』も、もっとはっきり見極めなくては……。

「レイ、明日も。またなにか、お願いするかも」
(了解なのだ。まかせるのだ)
「うん。今日もありがとう、レイ」

 レイのことはいろいろ、わからないことだらけで。そしてわからないまま、レイの能力に見合わない、些末な頼み事ばかりお願いしていて。
 それでも私のお願いをうれしそうに聞いてくれるレイに、とにかく感謝は伝えないといけない。
 私は強く、そう思っていた。



<3>ちくわ天カレーと白猫、彼の引力のこと

(6982字)

 次の日、学食で。コロッケ&ちくわ天カレーが載ったトレーを持って席を探していると、「真緒子ちゃん、こっち」と内田先輩に声を掛けられた。動揺を殺してそちらを向くと、内田先輩の並びに安達先輩が座っている。
 私はほっとして、ふたりがいる長テーブルに向かった。

「安達先輩、昨日はありがとうございました」

 席を勧められたので、ふたりの向かいにトレーを置き、立ったまま深々と頭を下げた。

「違う違う、俺が悪かったんだし、本当にごめん。座って座って」
「え、なんで顔見知り? おい安達、真緒子ちゃんと昨日、なにがあったんだよ」
「昨日、見知ったの。俺が迷惑かけちゃってさ」
「こいつ、真緒子ちゃんになにしたの?」

 内田先輩は私に向かって尋ねたのだけど、安達先輩が代わりに答えた。

「諸事情あるんだよ。それより御崎さんのカレー、冷めちゃうだろ」
「あ、そうか、悪い」

 あのマイペースな、言ってしまえば強引な内田先輩を、御している。
 そしてあの丸いポワポワの玉も、安達先輩にじゃれていて……。
 私は無表情を顔に貼り付け、座って手を合わせ、カレーを食べはじめた。

「ブフッ、御崎さん、カレーにちくわ天って」

 安達先輩が吹き出したので、私は首をかしげた。

「ちくわの天ぷら、食べたことなかったので。おかしいですか?」
「いや、斬新、ってヤツ。俺も今度試してみようかな。コロッケはいいよね、俺もカレーにはコロッケのっける」

 安達先輩の前には、持参したと思われるふたつのタッパーがあった。内田先輩のトレーには、焼肉定食。今日は先に食べはじめていたようだ。

「安達先輩は、お弁当なんですね」
「これ? バイト先でまかない、多めにもらえるからさ。内田、そのうまそうな焼肉一枚くれ」
「っ、しょうがねえな」
「フッ、御崎さんの前だから、くれるんだろ」
「やっぱりやらん」
「しまった、黙っておけばよかった」

 安達先輩が笑い、内田先輩はふてくされたように焼肉とごはんを頬張った。いつもの印象と違う内田先輩に内心、戸惑う。そしてそのとき、私の霊視能力が内田先輩の『違和感』の正体をはっきりととらえ、なるほど、と思ったところで、頭上から女の人の声がした。

「あれえ、安達くん、本当にいたんだ」
「しかも、まだお弁当食べてるよ」

 ふたりの女子が、私たちの並びにトレーを置いて座る。

「休み時間、いっつも講堂のどこかで寝てる人が起きてるなんて、雪でも降るんじゃない?」
「降らないって。起きてるときもあるよ」
「寝てるときのほうが、圧倒的に多いよね。この人、授業終わりのチャイムと同時にお弁当かきこんでさあ、そのままそこで寝ちゃうの。寝顔じゃないの、レアよ」

 初めて会った私に、冗談めかして言った彼女は、「お隣り、お邪魔するね。私は3年の須藤、こっちは相沢」と言いながら座る。

「1年の御崎さん。かわいそうに、内田くんのせいで有名人になっちゃって。その内田くんは、豪勢に焼肉定食で、御崎さんはカレー……ちくわ天?」

 須藤先輩は一瞬絶句して、それから吹き出した。

「それ、おいしい?」
「これから、初めて食べるので。あの、先輩のそれは?」
「ああ、冷やしサラダうどん。ざるうどんとサラダを一緒に買って、同じお皿でってお願いするの」

 そんなこんなで、いつの間にか5人でわいわい話しながらのお昼となり、それが次の日とその次の日も続いた。
 さらに次の日、私は安達先輩から借りたシャツと菓子折りが入った袋を「お借りしていた物とお礼です」と言って渡した。

「俺、大したことしてないのに。でも、ありがとう。あっ、そうだ」

 彼は袋を受け取り、学食のテーブルに菓子折りを出して包装を解いた。「いっぱい入ってる。山分けしよう」と言い、その個包装になったきんつばを内田先輩、須藤先輩、相沢先輩の前にひとつずつ置いていく。そして、私の前にも。

「え、あの、」
「一緒に食べたほうがおいしいから。なあ内田、あそこにいるのおまえの、サークルの後輩だよな?」

 安達先輩が彼女たちに声を掛け、トレーを手に席を探しつつ私たちのほうを見ていた彼女たちが、テーブルに来た。

「御崎さんから差し入れもらったんだけど、よかったら食べない? あ、席どうぞ」

 安達先輩が言い、彼女たち4人がそわそわもじもじしながら、向かい合って座る内田先輩と安達先輩の向こうに掛けるのを、私は隣に座っていた安達先輩越しに眺めた。

 例のやっかみが彼女たちによるものだということは事前に、安達先輩に訊かれていた。でも先輩はそんなそぶりはまったく見せずに笑顔で。私は無表情を貫くのが精一杯だったが、むしろムカつくから霊視してやる、と意気込んで彼女たちを凝視した。

 レイが言っていた通りだった。

 4人のうちのひとりに、気味の悪い動きをみせるもやが、からみついている。
 あれはおそらく、彼女の膨れ上がったいんの気を喰らおうと群がってきた、小物のじゃ
 あとの3人も、もやっとした陰の気をまとっているが、あのひとりに影響されてしまっているのだろう。

「じゃ、いっこずつね」

 安達先輩がきんつばを彼女たちに配り、すると。
 彼のまわりのあの丸い玉たちが、先輩を守るような動きを見せ……彼女に憑いた邪が、ゆらぐ。
 それと同時に、内田先輩が背負うあの『違和感』が動く気配がして、内田先輩が残っていたごはんをかきこんだ。

「悪い、急ぎの用事忘れてた。真緒子ちゃん、これ、ありがとう。またね」

 トレーを持ってカウンターに向かう内田先輩のうしろ姿を、4人が揃って、うらめしそうに見送る。

 なるほど……『違和感』、あの子はそうやって、内田先輩を守ってたのか。で、あの子だけが振り返って、私をじっ、と見つめてる、と。
 期待されている……うーん、不本意だが、しょうがない。

「レイ、あの邪と陰の気を消して」

 私はハンカチをわざと落として、それを拾うために座ったまま屈み、安達先輩と、反対隣に座る相沢先輩に気付かれないよう、テーブルの下で、小声でつぶやいた。

(真緒子、了解なのだ)

 私にだけ聞こえる、音のない声がして。
 そして、私にしか見えない闇色の球体が、彼女たちの周囲に浮かぶ。

 現れた4つの球体は握りこぶしくらい、その真円の球体たちは、彼女たちのまわりの薄暗いもやを次々と、空間を切り取るように取り込んでいく。最後に、キィキィと音のない鳴き声を上げる邪が、抵抗も虚しく引きずられて吸い込まれ、それと同時にレイの球体は、ふっ、と姿を消した。

「……御崎さん、ありがとう。いただきます」

 彼女たちのうちのひとりがおずおずと言い、他の3人も「ごちそうさま」「ありがと」などと、もごもご言い出した。最初に礼を言ってきた彼女のもやは比較的軽症だったかも、と思い返しながら、ニッコリと笑顔を返す。ニヤリ、から無理矢理変換した笑顔はぎこちなかったかもしれないけれど、そこはお互い様という奴だろう。

 かくして。
 彼女たちからの、やっかみという名の嫌がらせは、表面上はきんつばをきっかけに、終了した。

+++

 あれから。私は学食で、誰かしらと一緒に食事をするようになった。

 それは内田先輩や須藤先輩、相沢先輩とだったり、例の4人の女子たち、はたまた全然別の、知らない先輩や同級生が混じっていたり。

 それは元をたどるとやっぱり、どうやら天然人たらしな、安達先輩のおかげだった。

 結局安達先輩は、ほとんど毎日学食に来るようになって、そうすると入れ替わり立ち替わり、誰かしらが彼に声を掛けに来る。

 気がつけば、一緒に食事をしていた私も、あいさつを交わす相手が増えていて。
 なんだかんだで、例の彼女たち4人とも普通に話をするようになっていた。

 内田先輩も、4人と同席しても『逃げる』ことはなくなり、彼女たちもうれしそうに、でももじもじと話しかけている。私は彼女たちの人格の変わり具合を、興味深く観察するなどして楽しんでいた。カワイイといえばカワイイ、かもしれない。

 4人には、なにかのときに謝られたのだけど、「私も最初の頃、はっきりしない態度だったことは謝る」と返してみた。彼女たちの話題に、残念だけど興味がないのだと、最初にはっきり言えばよかったのだ。

 そこを少しだけ反省した私は、思っていることはなるべく正直に言ってみよう、と思った。

「でも私、根に持つタイプなんで。やられたことは忘れないし、一生許さないんで、そこのところはよろしくお願いします」

 彼女たちの手を取り、無理矢理握手をしながら、私は言った。はじめビクリ、と体を震わせた彼女たちも、私のニヤリ、とした笑みを見て力を抜き、握手を返してきた。

 そして、内田先輩をもてあそんでいるとかいう私の噂は、なくなっていて。内田先輩とふたりだけ、という日も普通にあって、でも以前より打ち解けていろんな話をするようになっていたある日、私はそれとなく先輩に訊いてみた。

「先輩、もしかして、なんですが。おうちで猫、飼ってませんか?」

 内田先輩は実家から通っていると聞いていた。

「いまは、いない。大学入学直前に死んでしまって。実は、真緒子ちゃんに声を掛けたのは、飼ってた猫に似てる、って思ったからなんだけど……」

 ちらり、と。あの『違和感』、あの子と目が合ったけれど、私はそれをさりげなく流した。
 巻き込んだのはやっぱり、おまえだったのか。さて、どうしてくれようか……まずは。

「名前。その猫の名前は、なんていうんですか?」
「真っ白だったから、シロ。そうだ、写真もあるんだ」

 先輩は定期入れを取り出し、中に入れ込んでいた写真を見せてくれた。
 全身真っ白な猫が、座りポーズ、すまし顔でこちらを見ている。長い尾が後ろから前足に向かってくるりと巻き、その前足は体の前できゅっと揃えられていて、猫型の一輪挿しがあったらこんな感じかな、と思う。切れ長の青い瞳。シャープな輪郭の小顔。

「っ、似てない……」
「えっ」

 似てる、そう思わせるには無理があるでしょ、でも成功してるのか。
 吹き出しそうになるのを抑えながら、私は続けた。

「私、丸顔で童顔だってよく言われるんですよ。シロはほら、私なんかよりもっと、美人猫じゃないですか」
「似てない、か?」
「そうですよ。シロが聞いたら怒りますよ、きっと。仲良かったんですか?」
「家族の中で、俺にいちばん懐いてたと思うよ。最期ちゃんと看取れたんだけど、しばらく泣けたなあ」

 私はひと呼吸おいて、それからゆっくりと、ことばを選びながら話した。

「そんなに泣いてしまったなら……亡くなったシロはきっと、内田先輩のこと、心配したでしょうね。ずっとそばにいてあげたい、って。あ、ええと……すみません私、嫌なこと言ってませんか?」
「いや、ぜんぜん。化け猫にでもなんでもなって、帰って来てくれたらって思うよ」
「そう願う先輩のために、目に見えないだけで、帰って来てるかも。先輩を守るために」

 今度はあの子、シロだったものにこちらから目を合わせ、無言の抗議を視線に乗せた。まったく、好き勝手やってくれて……でももう、おまえの正体を、私は知っているのだ、と。

 すると、内田先輩には視えない透けた体のシロが、猫の形を取り先輩の肩の上に座って、にゃーん、とひと声鳴く。すると内田先輩が、金縛りにあったように固まってしまい……先輩の目の前で手を振ってみると、やはり反応がない。

 私はため息をついて、再びシロをにらみつけた。幸い、近くのテーブルに人はいなくて、これもシロのせいなのかもしれない。
 なら、はっきり言ってやらないと。

「シロ。こういうのはこれで最後にして。シロがなろうとしているものの本分は、あるじの人生を見守ること。主の選択を妨げたり、意志を捻じ曲げるようなことをしてはならない。人の理を侵してはならない。こんなことを続ければ、いずれシロ自身が邪になってしまう。先輩はああ言っていたけれど、化け猫になっちゃダメ、本当に守りたいなら、そっちじゃない」

 自分の口から出たことばなのに、これは私のことばではない、と感じる。なにかにつながって、誰かが私の口を借りてしゃべっている、ような……。
 この感覚はこの頃、叔母の仕事を手伝うときにたまに感じるようになっていて、たぶんあの巫女とどこかでつながってそうなるのだろう、と思っていた。

 ポンッと音がして、シロをにらみつける視線上にレイが現れ、レイのヘビのしっぽがペシリ、とシロをはたいた。にゃん、と鳴いたシロが、ペロリと舌を出す。

(悠一郎のつがいにはなってくれないのか、とシロが言っているのだ)
「ならない。だからそれは、シロが決めていいことじゃないからね。先輩、内田悠一郎という人間に、シロは干渉してはいけないの。わかんないなら、レイ、もう一回はたいといて」

 シロの体がすうっと小さくなってゆき、消える。逃げたな、と思っていると、内田先輩の意識が戻った。レイもそこで、すっと姿を消した。

「先輩。写真、ありがとうございました」
「んっ、ああ……」

 何事もなかったように食事を再開したけれど、先輩はたまに、肩をほぐすように揉んでいた。
 ちゃんと忠告はしたし、あとは知らない。レイも、シロに気付いていても、私に注意することはなかったのだから、そんなに悪いモノではないはずだ。

 後日、先輩にはしっかりカノジョが出来るのだけど、そのカノジョの風貌を……佐倉なら、知りたがるだろうか?

+++

「うん、確かに、須藤には相談したんだ。そしたら、ふたりきり、ってのがよくないんじゃないかって提案してくれてさ」

 そう答えた安達先輩の、いつものボサボサで伸びきった前髪の間からのぞいた目が、やわらかく笑っている。

 改めてお礼をしなければと思いつつ、でもいつも人に囲まれている安達先輩とふたりだけで話すことが出来たのは、シロに釘を刺した日の何日か後のことで。最初に学食で同席してからは、だいぶ時間が経ってしまっていた。

 たまたま次の講義までの時間が空いていた昼食後、ちょうど帰るところだった安達先輩をつかまえ、「お礼と、いろいろ訊きたいことが」と言うと、先輩に促されて着いたのは、あの研究棟裏手の舗装路だった。

 人に聞かれたくない話だからか、と合点し、須藤先輩と相沢先輩のことを尋ねると、案の定な答えが返ってくる。

「須藤には軽く事情を話したけど、口止めはしてあるから安心して、っていまさらか。でも、うまくいってよかったよ」
「あの4人を呼んできんつばを配ったのも、計算のうちだったんですか?」
「あれは……うーん、なんとなく? 勘、というか、そのときにひらめいた感じかな。あの子たちどこか陰気な感じがして、内田と一緒にメシ食えばそれ、解消できるかなあ、くらいな感じ。あ、でも御崎さん、嫌じゃなかったかな、そこは心配だった」
「そうですね……多少思うところはありましたけど、結果良かったので。大丈夫です」

 正直、複雑な気持ちではあったのだけど、それよりも。
 私は安達先輩のことが気になって、仕方がなかった。

 まず、水をかぶった張本人である彼が、邪気のない笑顔だったこと。
 そして彼の背景にいつも、あの丸い玉が存在していたこと。

 レイに正体を聞いてから、私はあれらのことを勝手に、こだま、と呼んでいた。
 
 きんつばを配り出した、あのときも。
 彼の周りに人が集まってくるときも。 
 彼のそばには常に、こだまたちがいて。

 私は、そんな先輩とこだまの組み合わせに、すっかり毒気を抜かれてしまったのだ。

 いまも。こだまが、彼にじゃれるように浮いている。レイによると、こだまたちは毎回同じものではなく、それぞれの場所にいるものらしい。

「いろいろと、本当にありがとうございました」

 私は、深々と頭を下げた。とにかくちゃんとお礼が言いたくて、ああ、やっとお礼が言えた、と達成感にも浸っていた私の前で、安達先輩はあわててしゃがみ、下から私をのぞきこんでくる。

「そんなのいいって、たいしたことしてないし。それより、ずっと訊きたかったことがあるんだけど、いいかな?」

 私も、お礼を言った相手より高い目線でいられずしゃがみ、今度は私が安達先輩を見上げる。

「はい、なんでしょう」
「笑われるの覚悟で、訊くんだけど」
「はい……?」
「……御崎さん、」

 彼は私の名を呼んだところで一度、ことばを切った。そこで彼の喉仏が上下するのを見ていた私は、彼との距離が近くなって届いてきた、あのシャツの匂いを感じていた。

「あそこの。いちばん上の窓から、降りてきたよね? ふわふわと、浮かぶように」

 先輩が指さしたのは、私の背後になっていた5階建ての研究棟、その窓、で。
 答えられず固まっていると、先輩が私の顔を、じいっと見つめてくる。

 ……しまった。
 まさか、見られていたとは。
 困った状況から救い出してくれた恩人なのに。どうやって、ごまかしたらいい?

 でも、そんなことを、考えながらも。
 そのときの私は、この人にはもう言い逃れなんか出来ない、瞬時にそう思っていた。

 なにより私が、この人に嘘をつきたくない……。

 そう、私はあのとき、すでに。
 学食で彼に集まってくる人たちや、あのこだまたちのように。
 彼の不思議な引力に、引き寄せられてしまっていたのだ。



【第2章・貴方が私の名を呼んだ日】・了

【第3章・その目が私を呼んでいる】へつづく


【2023.06.14.】up.
【2023.06.23.】加筆修正
【2023.07.05.】脱字等修正、加筆
【2023.07.09.】加筆修正
【2023.07.14.】加筆修正


++闇呼ぶ声のするほうへ・各話リンク++

【プロローグ・祝福と名付け、そして母のこと】
【第1章・私は黒いヘビの名を呼ぶ】
【第2章・貴方が私の名を呼んだ日】
【第3章・その目が私を呼んでいる】
【第4章・私をその名で呼ばないで】
【第5章・闇呼ぶ声のするほうへ】/【エピローグ・そして私は彼女の名を呼ぶ】


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