闇呼ぶ声のするほうへ(長編小説)【第5章/エピローグ】
闇呼ぶ声のするほうへ
【第5章・闇呼ぶ声のするほうへ】
(9760字)
<1>漆黒の闇と伝わる波、小さな明かりのこと
(6083字)
夫、御崎玄の生き霊を見つけるための、『闇渡り』への旅路、その入口で。
レイヴン……蛇神の巫女から遣わされた私の黒いヘビ、レイが言った。
(真緒子はちゃんと、ここにいるのだ。それを忘れてはならないのだ)
幽体離脱して生き霊になった私は、布団に横たわる私の実体の体と、その横で私の手を祈るように握る彼女、佐倉玲花の姿を、部屋の天井近くから見下ろしながら、それを聞く。
私はここに、存在する。
それを、忘れてはならない。
「わかった。……レイ、ありがとう。いいよ、いつでも」
(真緒子、了解したのだ)
レイは私の顔の前に浮かび、私と目を合わせた。
ぐにゃり、と。世界の縮尺が狂うような感覚がした。
見つめていたレイの体が急に、視界に入り切らないほど、大きくなる。そしてそれが音も無く、端から分解していくように弾け、細かくなって……無数の黒い粒子となって、そこに浮かんだ。
その粒子に私は囲まれ、覆われ。いつしか、その粒子たちがじわりと溶けてつながり、粒子ではなくなり……液状化した艶やかな深い黒が、あたり一面を覆い尽くしてゆく。
そうして私は、レイの漆黒の闇に、呑み込まれた。
+++
「……レイ?」
旅の前に、私はレイに教えられていた。『闇渡り』は、『夢渡り』とは違う。闇に入れば、レイの姿も見えず、会話も出来ない……それはちゃんと、理解していた。
わかっている。けれど、もう一度だけ。
「レイ……」
呼びかけた声は吸い込まれて、消える。そこに音はない。
だけど私の思念が、その空間に音を発したように感じる……いや、『空間』じゃない。
ただそこに、漆黒の闇が広がって……『広がる』というのもおかしい。
ここは、なにも存在しない、漆黒の闇
レイが創り出した、特別な闇だ。
……闇は。
慈悲深く、そして無慈悲に、すべてを受け入れる
空間も時間も、その無をはらむ闇に呑み込まれ、その意味をなくす。
だから私は、空間や時間を越えて進むことが出来る。
そしてまた、闇は。
どこにも存在しない、または、どこにでも存在する。
誰かのすぐうしろ、そのなにも無い場所にも。
だから私の声はどこにでも伝わるし、私の手はなんにでも届く。
そうしてこの闇を利用して……体から離れてどこかへ行ってしまった、玄の霊体を見つけなくてはならない。絶対に。それが出来るのは、私だけ。レイの力を借りることで、無の内に存在する、という矛盾を抱えながら、存在することが出来るから。
『(我を失うと真緒子は、闇に呑まれて、消えてしまうのだ)』
そう、レイは教えてくれた。そうならないために、私は自身の存在を常に、強く持たなくてはならない。レイはそれを、どこかで見守ってくれているはず。だけど。
ここに来る前に、レイとたくさん話をして、覚悟も決めてきたというのに……私はひとりでいる心細さに耐え切れず、またレイの名を呼んだ。
「……レイ」
闇の中で、この闇そのものとなっているレイを呼ぶ。
本当に、意味のないことをしている……。
「……あ。私いま、レイの中にいるんだよね?」
ふと、自分が妊婦であることを、思い出した。
胎内に抱える、自分ではないもの。
それは見方によっては異物、であって、それなのに深くつながっている。
私とレイも、深くつながっている、はず。
体を持たない、思念だけの状態。
なのにどうしてか、自分の内側で……なにかがほんのりと、あたたかく疼いたような気がして。
私はそれで理由もなく、大丈夫だ、と確信を持てた。
「さて。それじゃあ、はじめようか」
+++
そこから私は、とにかく玄を呼び続けた。
「玄! ……玄!」
レイの闇の中から、空間や時間、玄を隠してしまったこの世の理を超越し、玄を呼ぶ。この声に彼が反応するだけで、私は彼を見つけることが出来る。
そして玄を見つけたら、闇に一度引き上げて移動し、玄の本来いるべき場所に戻す……。
それをレイが説明してくれたとき、なんとなくホラーなイメージが浮かんだ。
『闇から手を出して、玄をつかんで引きずり込む、感じかな……』
『悪の組織の女幹部どころじゃないね、末端の怪人だわ』
『っ、それなに、戦隊ものかなにかになってる?』
私が眉根を寄せると佐倉が笑い、『でもイメージって大事、具体的に思い浮かべておくことが、実践時の成功率アップにつながるんだから』とそれっぽいことを言い、私は『怪人』発言をごまかされたように感じて……。
……まだ少し、そんなことを思い出す余裕がある。
玄からの反応はまだないけれど、私の集中力が足りないだけ。
大丈夫、大丈夫。
まずは、彼を見つけなければ。
怪人のように引きずり込むのは、そのあとだ。
玄の居場所。
こんなときに玄が行きそうなところは、どこだろう。
玄のイメージ。
笑った顔、怒って無口になるところ。
私を見つめ、触れる手の感触。
私の好きな、玄の匂い。
玄の声。真緒、と呼ぶ、あの声の響き。
照れると私の耳元でそっと、内緒話のようにささやいて私を困らせる、あの低い声。
彼を想いながら、彼の名を、私は呼び続ける。
「玄っ! 玄ってば……応えてくれなきゃ、見つけられないよ!」
彼はどうして、すぐに私に気付いてくれないのだろう?
どうしてすぐ、生き霊にでもなって、私のそばに来てくれなかったのか?
私を、選んだことを。
その死の淵で、後悔しているのだと、したら?
『御崎は、さあ。ほかの誰でもない、安達先輩に恨まれたくないんだよね』
唐突に、佐倉のことばを思い出す。
……大丈夫。
悪役になる覚悟は、出来ている。
たとえ彼が、私を選ばないという選択を、したとしても。
彼を死の淵から引きずり上げ、闇に放り込んでやる、だから。
「応えてよ、玄! ……玄。ねえ、いないの?」
そんなはずない。
この世界に玄はいる、絶対に、必ず。
彼が私を、置いていくというのなら。
……彼が私を、選ばないというのなら。
私はきっと、玄を恨む。恨んでしまう……。
なんで、そんな。
こんな気持ち、どうして。
私は彼を縛りたくない、はずなのに。
でも。
「一緒にいたい、よ……」
玄と一緒に、いたい。
苦しいのに力を緩めてくれないときがある、あの温かい腕の中に。
『真緒、逃げないで。俺を選んでよ』
……ああ、そうか。
玄の気持ちが、やっとわかった。
束縛が過ぎるほど……一緒にいたい、という気持ちを抑えられなくて、苦しかったんだ。
「こんなに、苦しい……の?」
苦しくて……彼のことを簡単に恨める、なんて。
玄も。私を恨みたくなったことが、あるかもしれない。
私はどうして、彼の手を離すことばかり、考えていたのだろう。
玄の気持ちも考えずに、そんなひどいことばかりを考えて。
私はたぶん、玄の想いに、ちゃんと応えてはいなかった。
玄に比べて、全然足りなかった。
好きなのに……及び腰で逃げ腰で、卑怯だった。
「ごめん……ごめんなさい、だから意地悪しないで、応えて。御崎玄……安達玄、安達先輩……玄……お願いだから……」
応えのない、闇の中で。
私は黙り、ただ闇と無に浸る。
……届かない。
これじゃあ、ダメなんだ。
焦って、混乱して、罪悪感に苛まれ……こんなときにも、私は私のことばかり考えている。
『(真緒子はちゃんと、ここにいるのだ。それを忘れてはならないのだ)』
そうだね、レイ。
でもだから……いいんだ、これで。
これが私なんだ。しょうがないし……いまはそんなこと、どうでもいい。
だけど、足りない。
すべてを超越し、玄にたどり着くための闇。
でも私の声が、その闇と無にかき消されてしまっては、意味がない。
この矛盾を超えて、闇を渡り切れるだけの呼び声。
大丈夫、出来る。まだやれる。何度でもやる。
……そう。
届けるのは、存在の声。
私は私のまま、玄を呼べばいい。
もっと大きく、力強く。
落ち着いて。
もっと……もっと単純に、純粋な想いだけを、イメージして。
それを、玄を呼ぶ声に、乗せればいい……。
「……玄。玄のバカ。許さないから」
口を衝いて出たのは、悪口だった。
「許さない。私が呼んでいるのに、応えないなんて。勝手にいなくなるなんて、絶対に許さない……だから応えなさい、玄、」
内側から湧き上がる、熱をはらんだ激情……その熱が、私の霊体の体を巡り、渦巻くのを感じる。
もう、迷わなかった。
私はそれに身をまかせ、私の中の傲慢さ、貪欲さを引き上げ、命令としてそれを、声に塗り付ける。
苦しくて抑えられない気持ちを、そのまま解放する。
許さない……私は、あなたの不在を絶対に許さない。認めない。受け入れない。
私がここに存在する限り、あなたは存在しなくてはならない。
……いつか、そのときが来るとしても。
それは、いまじゃない。
だから私は、あなたに命令する。
私の存在を賭けて。
「玄、応えなさい。応えないと、許さない。玄。
……っ、げーーーーーーーーんっ!!」
……と。
私の声が、なにかに当たったような、気がした。
音すらも吸収する無音の闇の中、私の、彼を呼ぶ声だけが響き、波となって伝わっていき、そのなにかに、ぶつかる。
音のない世界で伝わる波、という矛盾。
でもだからこそ雑音なく、純粋にその波だけが、そこにある。
「……、…………」
伝わった波が、還ってくる。
その波が私を打ち、私は打たれて、震える。
「……、……? …………」
「……玄? 玄、げん、なの?」
震える私はまたその振動で彼を呼び、その波が伝わる。
闇の向こうで、私の波に打たれて震える存在が、そこにある。
繰り返し、繰り返し。
お互いの呼び声が、闇を超え、震えて響く。
響き合う声の、共鳴り。
それはたぶん……魂の、共鳴。
「……、……真……緒、……真緒?」
「玄! 聴こえるよ! 私の声、聴こえてるの?」
「……うん、真緒、だ。俺、どうして……」
見つけた。
時空を超越し、私の霊体が、その場所にいる玄の霊体を、はっきりととらえる。私は玄を引っつかみ、レイの闇の中に引きずり込んだ。
+++
玄は、自身の故郷や、昔通っていた高校のあたりを、ふらふらとさまよっていたようだった。
つかまえたときに、そんなイメージが流れ込んできたのだ。
「俺……たぶん、高校の頃に戻ったような気になってたんだと思う」
音のない闇の中で、玄がそんなふうに私に伝えてくるのを、感じた。
ふたりとも、生身の体ではなく、霊体になっている。それでも私は、玄の両手をしっかりと握っていた。
存在の、イメージ。
『闇渡り』の移動で、玄が消えてしまわないように。
「ひどく絶望してた、俺にはなにもない、って。でも、真緒の声が聴こえてきて、やっと思い出した。っ、なんで、忘れるとかあり得ない、真緒を忘れるなんて、死んでも嫌だ」
『(魂はその彼岸で、移ろいやすくなるのだ。記憶が混乱して、人格を保てないこともあるのだ)』
ここに来る前に、レイが教えてくれたこと。
忘れる、ということばが自身を刺す痛みに耐え、自分の思念に浮かんだ感情を、レイのことばで切り刻んで、なかったことにする。
「うん……大丈夫。玄が私を忘れることはない、こんな悪女に関わったこと、死んでも忘れないようにしてあげる。でもいまは、死なないで。死んだら許さない、わかった? だから、帰ろう」
……この手を、絶対に離さない。
私は玄の手を引きながら、帰り道をイメージする。
『闇渡り』なら一瞬で、玄の肉体にたどり着ける。ただ、それに至る強いイメージが必要になる。
玄の霊体につながる、色を失い細くなった魂の紐に、怯える心を落ち着け……私は出口を見つけようとして、目を凝らした。
ふと、そこに。
ぽうっ、と、ちいさな明かりが灯ったように、感じた。
「あれ、こんなところに、こだま? ううん、違う、な……」
その、こだまのような明かりが、行く先を照らすように、ふるふると揺れる。
それもまた、イメージでしかない。
でもそれは、ひどくあたたかく感じられて。
「なんだろう、これ……あれ、もしかして。
……生きてる霊魂、だったりする?
………………まさ、か」
気がついた瞬間、私はぞっとした。
体があったら、全身に鳥肌が立っていたはずだ。
まさか、そんな。
そう、だ。
闇渡りのはじめの、あの、疼いたようなあたたかさも……。
「どうして……っ、どうしよう、ついてきちゃうとかっ、玄っ、急いで! 早く帰らないとマズい!」
「真緒? どうしたの?」
「なにかあったら、玄のせいだからね! 違う、神様の、巫女様のせい? こんなことまで見越して、でもだから、大丈夫、だよね? っ、レイ!、出口どこっ。玄も探して、イメージして!」
「イメージ?」
あわてふためく私とは対照的に、玄がのんびりとした口調で言い、私は我に返った。
「ああ……落ち着け、私。そう、レイに言われてたんだった……ええっとね、玄がやりたいことを、イメージするの。肉体がないと、出来ないこと」
「肉体がないと、出来ないこと? 真緒と……肉体がないと出来ないこと……」
イメージの世界で。
つないだ手からイメージが伝わり……私が思っていた以上の情報が伝わってきて、私は手を離しそうになった。
「もおっ、そうだよ、死んだらそんなこと出来ないんだからっ、頑張って戻って!」
「わかった、約束。俺は絶対に真緒と、」
「っ、娘の、前だからっ!」
+++
すぐそこに、本当にあっさりと、出口が浮かんで。
私は闇の中から、玄の生き霊が体に戻るのを見守った。
玄と手を離す間際、私の生命力が玄に流れ込むのを、強くイメージして。
また玄のこの手を取るのは、絶対に私だから……祈るようにそう念じながら、私は玄の手を離した。
玄はするりと体に戻っていった。
彼もまた、体に戻るのに充分な思念を、強く持ってくれたのだ。
それでも、いのちがなくなってしまえば、そこにはいられない。
だからまだ、楽観できる状況ではない……。
でも、大丈夫。
というか、その心配は戻ってからにしよう、と私は思った。
出来ることは、すべてやれたし、それに。
私はいま、ものすごい爆弾を抱えているのだから。
「よし。じゃあ、帰ろうか」
私は自分を鼓舞するため、なるべく明るく言ってみる。
爆弾……あの小さな明かりは、また私の内側に入ったように感じられた。
「レイ。この子を、守ってね」
私は闇に向かってつぶやき、そして……体に戻るために、佐倉のイメージを強く思い出す。
私の手を握る佐倉の、やわらかく熱い手の感触。
彼女の想いが、私の生身の手から、ここにいる私まで届く。
佐倉は、命綱。私が無事、現実に戻るための……。
「ねえ、やったよ、佐倉。佐倉のおかげ……。佐倉玲花、私の、もうひとりのレイ……」
佐倉の、あまり呼んだことのない、下の名前。
どうしてかそのとき、私はそんなことを思ったのだった。
<2>御崎真緒子と黒いヘビ、ふたりの番いのこと
(3677字)
実際、一時間も経っていなかったのだと、あとで佐倉から聞かされた。
私は自分の体に戻り、一瞬目を開けて佐倉を見、うわごとのように「この子……生きてる? 大丈夫……?」と言い続け、それからパタリ、と寝たそうだ。
佐倉は「これ、寝てるだけだよね、救急車呼んだほうがいい? 呼ばなくていい?」と写真立てでレイとやり取りをし、それでも気が気じゃなかったのだと、話してくれた。
目が覚めると佐倉はすぐ横にいて、マンガを読んでいた。それは高校の頃にもよく読んでいたタイトルで、指摘すると、「あのねえ。さすがの私も、この状態で新刊なんか、読めるわけないでしょ。真緒、恐ろしい子」などと、返してきた。佐倉に下の名前で呼ばれたのは、いまのところそれが最後なんじゃないかと思う。
そして、玄の意識が戻ったという連絡があったことを教えられ、布団に入ったまま食事を取らされ、様子を見て産婦人科へ連れて行かれた。「特に問題はありませんよ」と言われてふたりで安堵し、それから私は、闇渡りの最中のことを佐倉に話したのだった。
「胎児の幽体離脱……いや、妊婦の幽体離脱もどうなの、ってハナシなんだけどさ」
「まあ、祝福を受ける者としての素質がある、ということなんだろうけど。でも、怖かった。あんなに怖い思いしたの、初めてかも」
「ふふ、御崎も母親だねえ」
「うう……。でも私さあ、よーく考えたら、いや考えなくてもなんだけど、母親、なんてものに、なれるのかね? だって私、家事全般まるで出来ないんだよ、育児なんて……それでも、私があなたのオカアサンです、なんて、この子に言えるものなの?」
「さあね。大きくなったら、この子に訊いてみれば? それまで時間はあるし……育児はまあ、私もやったことないけど。なんとか、なるんじゃない?」
翌日、佐倉は帰っていったのだけど、ひと月くらいしてまた戻って来て、「会社、辞めてきたから。御崎、愛人にするか、使用人として雇うか、してくれない?」と言った。
海藤さんと立花さんに話すと、子供も産まれることだしいいだろう、ということになって、佐倉は私専属の使用人、そしてベビーシッターとして、御崎家に雇われることになった。
後に佐倉は、御崎コンサルティングに入社、私のもうひとりのサポート役となった。
「御崎のコスチューム……じゃなくて、御崎をコーディネートしたり、仕事中の御崎の雄姿を撮影したりするのは、私の役目かな」
「どこかで聞いたような設定ですね、佐倉ちゃん」
冗談かと思って、そう聞き流したのだけど。
佐倉は実際に、ひどく楽しそうに、業務外のそれらをやってのけた。
……私のビデオや写真なんか、そんなに撮って、どうするつもりなんだ。
+++
玄は、闇渡りのことをあまり覚えてはいなかった。
なので私は、改めて玄に告げた。
「この子、ね。女の子、なんだって。巫女様に、教えてもらったんだ」
「え? それは聞いたよ。……あれ? そんなはず、ないよな?」
入院先の病室で、私たちはお互いの話をたくさんした。個室なのをいいことに、いちゃついたりもして、「なんだろう、めちゃくちゃ触りたい。でもこっちから動けないから、真緒、お願い」などと無茶ぶりをされ、応え……それはいいとして、そんな中で。
「ハンドル、切ったとき。たぶん俺、守られたんだと思う」
玄が思い出して、言った。
「たくさんのこだまが、いたんだ。ハンドルがあのままだったらたぶん、隧道じゃなくて、反対の崖のほうに落ちてた。なにかに乗り上げたのは……うっかりしてて、俺はそれと目が合ってしまったからで。……っ、本当にごめん、今度からは気をつける。だからもう泣かないで、真緒」
海藤さんが止めるのも聞かずに、私は即、事故現場に御礼参りに出掛け、そいつをレイに締め上げてもらった。相当質の悪い邪が、数多の死霊を操るなどしてさらに死霊を引き込んでいて、私とレイは、少しも躊躇することなくそれらを、文字通り闇へ葬った。
帰り道、しょうがなく迎えに来た海藤さんは、車を運転しながら、「母親になる人が……そういうの、本当に困るんです。母親は、死んではいけないんです」と、静かな、静かな低い声で、言った。
レイの力を使い過ぎ、助手席でぐったりしていた私は、震えあがって背筋を伸ばし、普段穏やかな人を怒らせてはいけない、それは真実だった、という教訓を得た。
退院後、玄には佐倉に渡したような守り袋を渡し直した。以前から玄には守り袋を持たせていたのだが、あの事故の日、カバンを替えてしまったことで持っていなかったのだと聞かされ、ものすごく怒ってから、いくつもの守り袋を押し付けた。
「こんなにカバン、持ってないよ」
「うるさい、それにこれだけじゃないからね」
私は玄に言いつけ、片耳に穴を開けてきてもらった。レイと一緒に力を込めた黒瑪瑙のピアスを着けさせると、玄がうれしそうに笑う。
「束縛されてる感じがして、いいね」
「っ、魔除け、厄除けなんだからね! っとに、もう……。あ、そうだ。私ね、愛人を持つことにしたから」
腹が立った私は、なるべく意地悪な口調で、玄に言った。
「アイジン?」
「そう。背が高くてきれいな手の……」
(佐倉玲花は、真緒子のもうひとりの番いなのだ)
また、いいところでレイが口を挟んできた。固まった私にかまわず、玄がレイのほうを見て、「なるほど」とうなずいた。
「佐倉さんか……。負けそう、でも頑張るよ。せめて二番に、なれるように」
「二番、なの?」
「真緒には不動の一番、レイがいるだろ?」
その話を佐倉にすると、佐倉はフン、と鼻で笑った。
「一番とか二番とか、玄先輩も案外小さい男なんだね。大体ねえ……一番はレイより、おなかの中のこの子になるんじゃないの? それに、だね。そもそもそんな順位、御崎の中で付けられるもんじゃないでしょ?」
なるほど、それはそうだ。順位なんか付けられない、みんな一番……。
納得顔の私を見て、佐倉が今度はニヤリ、と意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あなたこそが私の一番なの、って。悪女はみんなに、そう言うんだよね」
そしてその話を玄にすると、玄は困ったように笑った。
「そうだね。順位なんて、真緒は付けないよね」
「え、じゃなくて、悪女のハナシ、なんだけど」
「それはどうでもいいし。それより、」
彼は自分の左腕を枕にするようにして、私の頭をそこに乗せた。
「このピアスも……佐倉さんにも、あげるの?」
玄の左耳の、黒瑪瑙のピアス。「それはない」と答え、それに触れるようにして、耳にキスをした。
体のあちこちに、事故の傷が残っているのに。私は彼の耳に、傷を増やしてしまった。
そして私は、そのことに満足している。
「こうやって……束縛するのは、玄だけだよ。玄は私の、もうひとりの黒、だからね」
「もうひとり? もう一匹じゃ、なくて?」
「なんでそこに食いつくの? 言いたかったのは、黒、のほうで、っ……、ちょっ、本当に食いつくとかっ」
「一匹、って数え方のほうが、あってるだろ?」
+++
佐倉と玄は、普通に仲良くなった。「趣味が一緒だからね」と佐倉は言い、それを聞いた玄も、「あ、そっか、そうだね」とやわらかく微笑む。
共通の趣味なんてあっただろうか、と首をかしげていると、隣で宙に浮いていたレイが私を見て、同じように首をかしげた。
(真緒子、なにか、悩んでいるのか?)
「悩んでは、いないけど。わからないな、と思ったんだよ」
私はレイを、手の甲に乗せた。
レイはしゅるりと尾を手首に巻き付け、上体を起こして私を見つめる。
「レイのことも、まだいろいろ、わかってないけどね」
(自分も、真緒子がわからないから、訊いたのだ)
「ふふっ……レイにも。あるんだよね、わからないこと」
神様の御遣いの、くせに。
私の、いちばん近くにいるくせに。
レイでさえ、わからない。
自分の近くに呼んでおいて、おまえのことがわからない、なんて。
でも、しょうがない。
それとこれとは、別の話。
わからないまま、私は彼らを呼び。
彼らがそれに応え、ここにいる。
……あの、『闇渡り』で玄を呼んだときのように。
私たちは呼び合い、互いの声で響き合い、共鳴する。
深い深い闇の中で、なにも見えないまま。
広い広い世界で、すべてを目にしながら。
愛しい者の存在を、見失ってしまわないように。
……もし、叶うなら。
その共鳴が、一瞬でも長く続きますように。
それを願いながら、私は今日も。
目の前にいる一匹とふたりに向かって手を伸ばし、その名を呼ぶのだ。
+++
そして、月日は流れ。
翌年の4月。私は娘を、無事出産した。
出産が、それこそ神様の存在を疑うほど長時間になったことは、一生忘れない。
陣痛がはじまってから、13時間、とか。ええまあ、世間並の時間だったといえば、それまでなんだけれど、そんなの……ねえ?
いつか私も娘に、「13時間よ、13時間!」と言ってしまうかもしれない。いや、絶対に言わせてもらおう……うん。
【エピローグ・そして私は彼女の名を呼ぶ】
(1109字)
と、いうわけで。
私が黒いヘビ様と出会ってから、祝福された娘を産むまでの顛末、その、ゆるやかで平凡な非日常のお話は、これでおしまい。
それで、私たちがその後、どうなったか、というと。
『そして私と玄、ふたりの間に生まれた娘は。
佐倉の助けを借りながら、幸せに、幸せに暮らしました、とさ。
めでたし、めでたし。』
……とは、ならなかった。
確かにしばらくは、そんな日々を送ったのだけれど。
なにせ娘も、祝福されてしまっていたのだから……まあ、しょうがない。
それでも。
日常は、続いていくのだ。
本当にいろいろあって、私も玄も、そのときの最善を尽くした。
それでも、いまのこの状況は世間から見ると、幸せ、とは言い難いだろう。
だけど私も、そして玄も。
後悔は、ひとつもしていない。
人に訊かれたら、これが私たちの幸せなのだと、断言できる。
ただ……娘は、どうなのか。
私は、こんなに時間が経ったいまでも、それを訊けないでいる。
もうすっかり大人になってしまった彼女が……それをいま、どう思っているのか。
そして、どう思って過ごしてきたのか、を。
……だが、それは。
ここで語られることのない、別の話。
もうすでに私の話ではない、彼女の物語だ。
私はもしかしたらそこで、とんでもない悪役になって、登場するかもしれない。
それは覚悟してる……私はひどい母親だという、自覚があるから。
これは娘への手紙、ではない。
そんなものに見せかけた、ただの思い出話、だ。
ふと振り返れば、もう35年も前になる、レイとの出会い。
佐倉との高校時代、玄と出会った大学生の私……あの頃の日々、起こった出来事。
たわいもない、青春の思い出。
だけど、いつか。
例えば娘に問われても、答えられるように。
都合よく過去を忘れてしまわないように、たまにこうして虫干しをしてやって……楽しい思い出ばかりではないけれど、それも悪くない。
じゃあ……娘に伝えたいことは、なにもない?
そんなことはない。
でも、彼女に訊かれない限り、こちらからは言わない、と思う。
でも特別に。
ここでこっそりと、小さな声でつぶやいてみるならば。
……あなたは、選んでここへ来てくれた。
私があなたを呼ぶ声に、応えて。
私の声の、するほうへ。
私を選んでくれて、ここに生まれてきてくれて、ありがとう。
そして私は何度でも、あなたの名を呼ぶ。
あなたに、この想いが伝わるように。
願いが、叶うように。
母親らしいことが、なにひとつ出来ない私でも。
それだけは、出来るから。
それは。
どうかこの世界にいてほしい、という願い。
だから私は、あなたの名前を呼ぶんだよ……十緒子。
【第5章/エピローグ】・了
闇呼ぶ声のするほうへ・完
【2023.06.25.】up.
【2023.07.07.】加筆修正
【2023.07.15.】加筆修正
++闇呼ぶ声のするほうへ・各話リンク++
【プロローグ・祝福と名付け、そして母のこと】
【第1章・私は黒いヘビの名を呼ぶ】
【第2章・貴方が私の名を呼んだ日】
【第3章・その目が私を呼んでいる】
【第4章・私をその名で呼ばないで】
【第5章・闇呼ぶ声のするほうへ】/【エピローグ・そして私は彼女の名を呼ぶ】
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