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14 四国一周という名の三国一周

 加藤秀樹くんの他にもう一人、ライター仲間の松井俊夫くんも酒と温泉と旅が好きで、この3人でもよく旅行した。3人のうち誰が最初に言い出したのかは覚えていないが、あるとき四国を一周してみようということになり、1993年の4月に実行した。
 まず新幹線で神戸まで行き、そこからフェリーに乗った。いま調べたら神戸~鳴門へ直行する航路は見当たらなかったが、ぼくの記憶ではポートタワーの見える港から船に乗り、鳴門のうず潮を見物したあと徳島県の鳴門に到着したはずだ。
 鳴門の港の高台にあるレストランに入り、四国への上陸を祝ってビールで乾杯した。当時は全国のご当地麺を食べ歩く趣味に目覚めていなかったが、それでも麺類は昔から大好物なので、つまみに煮麺(にゅうめん)を注文した。ナルトが乗っていたかもしれない。
 そこから徳島線で阿波池田へ向かった。何があるというわけではないが、野球好きの加藤&松井コンビが、やまびこ打線で1982年の夏大会と翌年の春大会を制覇した県立池田高校を訪ねてみたいと言い、行ってみることにした。野球にはまったく興味のないぼくだったが、旅の余興として付き合うのにやぶさかではない。
 学校は阿波池田の駅からそう遠くはないのだが、校門へ続く道がそれなりに勾配のある坂道で、野球コンビは「この坂道で池田のナインは足腰を鍛えられたんだなあ」と感慨深げだったが、ぼくは早くも後悔していた。それでもなんとか坂道を登り切り、校門の前で捕手のポーズをして写真を撮る程度には楽しんだのだった。
 次に向かったのは祖谷渓。阿波池田から土讃線で祖谷口へ行き、そこからバスで山道をウネウネとたどり宿に入った。祖谷には絶壁に立つ小便小僧とか、かずら橋などがあるが、いちばんの目的は祖谷そばだった。素朴な太めの蕎麦で、つなぎを使わないためにぼそぼそとしていて千切れやすいのだが、その食感がよくて実にうまい。実は祖谷渓へ向かうバスに乗る前に、祖谷口の駅に着いた時点で空腹に耐えきれず駅の立ち食いそばを食ってしまったのだが、それがすでにうまかった。のちに、ゲームフリークが三軒茶屋に引っ越した際、三茶にも祖谷そばを出す店を見つけて、たびたび食べに行ったほどだ。

 この旅は1993年の4月18日から25日にかけての7日間で、過去のメモを見ると「神戸→鳴門→池田→祖谷→土佐→桂浜→宇和島→道後→松山」というルートが記録してある。ということは、祖谷渓の次は土佐へ行ったことになるが、吉野川にかかる大量の鯉のぼりを見た記憶があるので、一旦は祖谷口に戻り、そこからまた土讃線で大歩危に向かったのだろう。
 そして高知県に入り、誰が希望したのかは覚えていないが、土佐山田で土佐闘犬センターを見学した。この施設、いまも営業を続けていたら動物虐待として世界中から冷たい目で見られるだろうけれど、当時はそれが許されていた。
 いまでもよく覚えているのは、闘犬場に一歩足を踏み入れた瞬間に鼻をついた匂いだ。それは糞尿の匂いというよりも、闘っているときに犬が垂らす涎と血の匂いだった。こればかりは現場を体験しないとわからないものだろう。客席には、まともな観光客はあんまりいなくて、あからさまに地元の筋モノっぽいおっちゃんと、そのおっちゃんが連れているホステスばかりだった。本当にあれは我ながらナイスな体験であった。
 その後は、お約束のようにはりまや橋を見て、桂浜で龍馬像を見て、土佐の名物料理に舌鼓を打った。土佐料理といえば、なんと言っても皿鉢(さわち)料理である。皿鉢料理というのは、宴会用大皿料理のスタイルで、厳密に何を乗せるという決まりはないようだが、鰹のたたきを筆頭に、その他の魚介類が刺身だけでなく焼き物、揚げ物で盛り付けられ、さらに酢の物や煮物なども一緒くたに盛り付けられるのが一般的だ。それだけなら納得の範囲だが、驚いたのはデザートも同時に盛られていることで、ぼくらが訪問した店の皿鉢料理には、ミカンや羊羹まで盛られていた。
 というわけで、これひとつ頼んでおけば他につまみを追加注文する必要もなく、延々と飲んでいられる。酒の銘柄には何もこだわりがないぼくなので、地酒をあれこれ選んで飲んだように思う。

 高知の次は愛媛県へ向かった。最初の目的地は宇和島。ここは完全に食い物が目当てで、じゃこ天、はらんぼ(鰹の腹、すなわちハラス部分のことらしい)、ふくめん(糸こんにゃくの上に紅白のでんぶ、そぼろ玉子、ネギなどのカラフルな食材で飾り付けされたもの)、フカの湯ざらし(サメ肉にサッと火を通したものを酢味噌で)などを堪能した。
 宇和島といえばミカンも有名だが、ことさらそれを求めたりはしなかった。ぼくは果物は梨くらいしか食べないのだ。それよりも、じゃこ天が非常にうまくて工場も見学し、出来たてのものを箱単位で購入して家に送った。あとで自分で食うつもりで買ったのだが、けっこうな長旅となったので、ぼくが帰宅するよりずっと早くに着いて、家族(当時は両親と姉)が「昭仁がお土産を送ってくれたよ~!」と、全部食べてしまっていた。
 さらに、愛媛といえば松山の道後温泉である。温泉好きの3人がここまで来て寄らないわけがない。あの有名な道後温泉本館の二階大広間の一角に陣取り、湯上がりのビールを楽しんだ。
 松山城に登ったり、坊ちゃん電車に乗ったりもしているはずだが、この旅の記憶はほとんど酒と肴とお湯くらいしか残っていない。
 松山のあとの足跡は記録を残していないのでわからないが、おそらく今治へ出て、陸路伝いに本州へ戻り、広島の福山あたりから新幹線で帰郷したのではなかったか。いずれにせよ、トータル8日間の四国一周旅行だったわけだが、いまこうしてルートを振り返ってみると、香川県には一切立ち寄っていないことがわかって愕然とする。それで四国を一周したと言えるだろうか?
 当時はまだ讃岐うどんブームが来るより前だし、誰も「うどんを食おう」とは言わなかった。香川に寄る理由がなかったということなのか。逆に考えると、香川にはうどん以外何もないということになってしまい、いまさらながら申し訳ない気持ちになるのである……。

※ヘッダーに挙げた写真には「87 1 9」のタイムスタンプが見えるので、最初は1987年1月に旅行をしたのだと思い込んでいたが、当時の記録にそうした記載が見当たらない。それで過去の手帳を引っ張り出してみたところ、四国へ行ったのは1993年の4月であることが判明した。カメラの電池切れで内蔵時計がリセットされ、工場出荷時の時刻のまま撮影してしまったのだろう。


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