とみさわ昭仁

プロコレクター、ライター、ゲームシナリオ、マンガ原作、マニタ書房など、いろいろやってるとみさわ昭仁のnoteです。

とみさわ昭仁

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    マガジン

    • ゆりかごから酒場まで

      ぼくが酒と関わりその魅力に没入していく人生を時系列に従って振り返ったエッセイです。

    • 酒の顔

      酒というものを代表する様々な顔についてのエッセイです。

    • マニタ酒房

      ライターとみさわ昭仁による酒エッセイ2021年度版です。酒にまつわる様々なことを楽しんだりボヤいたりします。毎週土曜に更新する予定ですが、酔っ払って休むことも多いだろうことは容易に予想されます。

    • 酔ってるス

      このマガジンは、とみさわ昭仁が2014年12月22日から2015年11月30日にかけてウェブサイト「it-tells」に連載した酒エッセイ「酔ってるス」を再掲したものです。本日(2020年2月2日)より、毎週日曜と木曜に1本ずつアップしていきます。再録の許可をくださった関係各位には、厚くお礼申し上げます。

    最近の記事

    27 高尾山で見た雨のカーテン

     積極的にはお酒を飲もうとしない妻が運転を引き受けてくれたおかげで、自分の知らなかった場所、行こうとは思わなかったような場所へ行ってお酒を飲める機会が格段に増えた。住まいが昭島市にあったため、行動範囲は西東京や埼玉南部が中心となる。横田基地周辺、多摩ニュータウン、昭和記念公園、サマーランド、西武球場などなど。  いつかの夏の日、妻が「高尾山に行こうよ」と持ちかけてきた。  あの当時、家にもPCと常時接続のネット回線は整備されていたが、まだ通信速度は遅めだったので、それほど頻

      • 26 明大前と立川の再開発

         1995年に、仕事の都合で明大前に住居を兼ねた事務所をかまえることになった。不動産屋に飛び込んで、駅から徒歩5分程度で甲州街道沿いにあるマンションを借りた。アシスタントも一人雇うことが決まっていたので、自分の住まいと作業場を分けられるよう、2LDKの物件を選んだ。  明大前には2年暮らした。いま、これを書きながら当時の酒事情を思い出しているのだが、ほとんど記憶がない。ほぼ毎晩のように酒は飲んでいたはずなのに、あの町での酒場の思い出が頭に浮かばないのだ。唯一思い出として刻まれ

        • 25 帰ってきた下北沢編その7

           下北沢にはずいぶん長く住んだ印象があるが、実際はそうでもない。ぼくが下北沢にアパートを借りたのは1989年の9月で、そこに3年間住んだ。そのあと一旦は松戸へ戻ったり、明大前に引っ越したり、結婚を機に立川へ移ったりしたが、ゲームフリークから独立したあとも継続して仕事をもらっていたし、馴染みの飲み屋もたくさんある。さらに、数年後にはゲームフリークに復職もしたので、相変わらず下北沢に通う日々は続いた。だから、実際に済んだのはたった3年間でも、下北沢にはずいぶん長く住んていたように

          • 24 新年最初のお楽しみ「ロマ弁」

             モギさんとの出会いによって遊びの幅が広がったことはいくつもある。ジッポーやスキーの楽しみ方もそうだが、駅弁大会もそのひとつだ。  駅弁大会とは、毎年1月になると新宿の京王百貨店で開催される「元祖 有名駅弁と全国うまいもの大会」のことだ。彼と知り合う前からそういう催し物があるのは知っていたが、実際に自分で足を運んだことはなかった。  なぜか? 答えは簡単。  以前から熱い食べ物が大好きで、自らを「マグマ舌」と呼んでいるような人間が、わざわざ駅弁みたいに冷めた弁当を買って食うわ

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          記事

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            23 モギという男と嫉妬する妻(下北沢編06)

             旬亭で知り合った友達の中で、いちばん一緒に飲んだ酒の量が多いのは誰だろうか。考えなくてもわかる。あの男だ。  旬亭に通い始めた当時のぼくはまだ喫煙者で、ジッポーライターをコレクションすることに夢中だった。ゲームデザイナーとしての代表作『メタルマックス』にちなんで、戦車がデザインされたジッポーを買ったのを皮切りに、気に入った図案のものや有名な記念モデルなど手当たり次第に買い始めて、10~20個は持っていただろうか。普段愛用しているのは自分の名前を刻印したやつだが、ときにはそ

            22 会社の目の前にあった楽園(下北沢編05)

             下北沢での酒ライフを語るときに、決して外せない店が一軒ある。「レストランバー 旬亭」である。開店当初はカウンターしかない小さな店だったのだが、自ら「レストラン・バー」と名乗るだけあって、マスターの作る手料理がうまい、食事のできる店だった。  あれは1993年4月のこと。黄色いビルの4階にあるゲームフリーク出版部の自分のデスクで仕事をしていると、一本の電話がかかってきた。それはアスキー編集部からで、今度創刊される雑誌でコラムの連載をしませんか? というものだった。  もちろ

            21 床下からバルサン(下北沢編04)

             下北沢編01で書いたように、法人化する前のゲームフリークは、茶沢通りと梅ヶ丘通りの交差点付近にあった8畳ほどのアパートに事務所をかまえていた。そこから、法人化してすぐに下北沢の一番街を北西へ抜けた先、環七にほど近いところのマンションに移り、さらに数年して社員が10人近くまで増えたのを機に、下北沢の繁華街にある第2鈴木ビルというところへ移転した。  音楽好きの人ならわかると思うが、この第2鈴木ビルというのは、2015年の5月まで1階に「イエローポップ」という有名中古レコード店

            20 SE30とエズラブルックス(下北沢編03)

             それまで積極的には飲もうと思ったことがないウィスキーを飲むようになったのも、下北沢に住み始めてからのことだ。きっかけは、アパートの近くにあった「プライベート・バー」という店。 ウィスキーを愛飲しているわけでもない人間が、なんでバーなんかに行こうと思ったのかはわからない。ちょっとカッコつけたかったのかな。一人暮らしを始めて、やっと大人になれたような気がしたのは覚えてる。仕事をすることで現金を稼ぎ、自分のお金で家賃を払い、自分のお金で食材を買って自炊をする。掃除も洗濯も自分でし

            19 王将の幻のとりうま煮(下北沢編2)

             それまで、一人で酒を飲みに行くなんてことはなかった。飲むときは、たいてい友達を誘うか誘われるかして、一対一のサシで飲む。あるいは何人かで連れ立っての飲み会になる。だから、家で飲むことも滅多になかった。でも、下北沢で初の一人暮らしを始めてから、一人で飲むことが自然と多くなっていった。  学生の頃から会社員時代にかけてはそれなりにモテたりもしていたんだけど、フリーライターになった途端にモテなくなった。金もなく、地位もなく、将来性もない自営業の身では仕方ない。で、彼女がいないと、

            18 辛口玉子とじラーメンの思い出(下北沢編1)

             若い頃から泊まり癖があって、ことあるごとに友達の家やアパートに泊まっていたし、『よい子の歌謡曲』に参加してからは週末ごとに編集部へ泊まり込み、ライター仲間と事務所を作ってからは、ほとんど家に帰らず事務所に寝泊まりしていた。  そんなぼくでも、自分一人で家賃を払ってアパートを借りたことはなかった。だからゲームフリークと出会い、彼らの事務所がある下北沢にアパートを借りたのは、生まれて初めての一人暮らしの始まりでもあった。  下北沢の駅から徒歩10分。小さなキッチンとユニットバス

            17 メタルマックスを作った町、荻窪

             1989年。この年は自分の人生においていろいろなことが起こる、激動の年だった。  4月に初めてのワープロを購入し、仕事に使い始める。メンバーとして参加していたゲームフリークはまだアマチュア集団だったが、自主制作でファミコン用ゲーム『クインティ』を完成させ、ナムコから商品化されたのはこの年の6月だった。ぼくは開発にはノータッチながら、取扱い説明書の編集を任された。  8月には、ファミコン神拳で仲良くなったミヤ王さん、キム皇さんと共に『メタルマックス』を企画し、荻窪のデータイー

            16 ファミコン神拳の時代

             1988年の2月、ぼくは初めて神保町にある集英社を訪れる。当時「週刊少年ジャンプ」の巻頭に月イチで連載されていた袋綴じ企画「ファミコン神拳」の執筆メンバーに抜擢されたからだ。  それ以前に仕事をしていた「スコラ」も「ファミコン通信」も、業界の基準に照らしてみれば原稿料は決して悪くなかったが、さすがに集英社は違った。原稿料がいいのもさることながら、編集者各人に許されている必要経費の枠が大きいのだろう。なんというか、食に対する待遇がいいのである。  初めて「ファミコン神拳」の定

            15 中目黒のよっぱらい姐さん

             ぼくがミニコミではなく商業誌に初めて寄稿したのは1983年の『ザ・シングル盤』というムック本だが(刊行自体は1984年1月)、そのときはまだ製図の会社に勤めていた。その後、『よい子の歌謡曲』での活動を経て、1985年に会社を辞めると共に本格的なフリーライターの道へと歩み出す。  原稿依頼のあてなんかほとんどなかったけど、毎朝7時に家を出てぎゅうぎゅう詰めの通勤電車に揺られることに精神の限界がきていたので、そこから解放されることだけが希望の光だった。  それまで、いくらだらし

            廃墟の記憶

             本プロジェクトのために、2022年4月よりチームメンバーは毎月一回、定例ミーティングを開いている。そこでメンバーはそれぞれが気になるものや興味ある話題を持ち寄り、意見交換をする。そこでタジリ社長が何度かにわたって提示してきたのが、何冊もの「廃墟」の写真集だった。  社長は、なぜこれほどまで廃墟に執着を示すのだろう。話を聞いてみると、それは少年時代の思い出に由来するという。 「これまでいろんなところで語ってきたので、知ってる人も多いと思うけど、子供の頃、ぼくは町田市の都営

            14 四国一周という名の三国一周

             加藤秀樹くんの他にもう一人、ライター仲間の松井俊夫くんも酒と温泉と旅が好きで、この3人でもよく旅行した。3人のうち誰が最初に言い出したのかは覚えていないが、あるとき四国を一周してみようということになり、1993年の4月に実行した。  まず新幹線で神戸まで行き、そこからフェリーに乗った。いま調べたら神戸~鳴門へ直行する航路は見当たらなかったが、ぼくの記憶ではポートタワーの見える港から船に乗り、鳴門のうず潮を見物したあと徳島県の鳴門に到着したはずだ。  鳴門の港の高台にあるレス

            13 薬王寺町の岩海苔おにぎりとピロシキ

             ぼくが『よい子の歌謡曲』と出会ったのは、1981年に発行された第8号が最初だった。歌謡曲、とりわけ音楽的に軽視されがちなアイドルポップスを評論するという誌面方針に感銘を受け、どうしてもこの同人誌に参加したいと思って、何度も投稿を繰り返したのちに、1983年発行の第13号で初めて採用された。投稿が載るまでは中野にある編集部へ遊びに行かない、という自分ルールを決めていたので、ぼくが初めて編集部へ行ったのは1983年になってからだ。たしか春くらいのことだったと思う。  それから次