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21 くせぇラーメン食わしてくれよ

 娘が小学生になったばかりの頃。学校帰りにふたりで近所を歩いていたとき、とあるラーメン屋の厨房脇を通りかかった。道路に面したダクトからは、大きな寸胴で炊いている豚骨スープの湯気が吹き出している。その匂いを嗅いだ娘は、ポツリとこう言った。

「なんか、暗黒っぽい匂いがする……」

 我が娘の非凡なボキャブラリーを自慢するところから始まった今回のテーマは「豚骨ラーメン」である。
 九州出身の人にとって、ラーメンといえば豚骨スープが当たり前だろう。
「豚骨スープが母乳のかわり」
 九州番長連合の長浜淡海もそう言っていたのだから間違いのないところ。
 しかし、東京モンである自分には豚骨でスープをとるということが、長いことピンと来なかった。ラーメンといえば鶏がらスープの醤油味。地元で食えるのはそんなラーメンしかなかった。
 1979年、ハウス食品から「うまかっちゃん」という即席ラーメンが発売された。関東の人間で初めて豚骨ラーメン、もしくは博多ラーメンというものを食べたのはこれが最初、という人は多いのではないだろうか。ぼくも当時買って食べた覚えがあるが、慣れないこの豚骨味を美味しいと言ってよいのかどうかよく理解できず、我が家の即席ラーメンの購入リストに定着することはなかった。

 その次に豚骨ラーメンを体験したのは、関東に進出してきた博多ラーメンのチェーン店「ふくちゃん」だ。どさん子ラーメン同様に、本場九州にある店が進出してきたのか、それとも関東向けに作られた店なのかはわからないが、即席ラーメンではなく、店で調理された豚骨ラーメンを食べたのは、これが初めてだった。当時、渋谷の東急ハンズの向かいあたりに支店があって、遊びに行ったついでによく食べたものだ。
 スープの味はあっさり目で、やはり関東向けにソフィスティケートされていた。いわゆる豚骨の臭みはほとんど感じられず、関東人にも食べやすいものだった。テーブルには白ゴマと紅生姜が常備してあり、とても物珍しかった(辛子高菜はなかった気がする)。
 九州のラーメンといえば、麺が細くて硬いことでも知られるが(正確には同じ九州でも博多ラーメンと熊本ラーメンは別物だし、福岡県でも博多ラーメンと長浜ラーメンは別物だというが、それを論じるのが主旨ではないので、そのあたりは曖昧のまま話を進める)、渋谷のふくちゃんの麺はやわやわだった。
 のちに博多ラーメンには「バリカタ、ハリガネ、粉落とし」といった茹で時間の指定があることを知るが、福ちゃんではそういう張り紙などはとくに見た記憶はない。当時は(少なくとも関東では)そこまで本場に寄せることを重視していなかったのだろう。

 それからまた月日が経ち、1989年か1990年くらいの頃に、ぼくはあの「なんでんかんでん」と衝撃の出会いを果たす。
 なんでんかんでんとは、環七沿いで一大ラーメンブームを起こした博多ラーメンの有名店だ。連日の大行列、並んでいる間に披露される若手芸人の漫才、自動車で来た客の違法駐車、目立ちたがりな川原ひろし社長のパフォーマンスなど、話題に事欠かない店だった。
 当時はゲームフリークが『クインティ』を完成させて株式会社になったばかりの頃で、スタッフは度々オフィスに泊まり込みで作業をしていた。ぼくはまだ社員ではなかったけれど、仕事を手伝っていたのでしょっちゅう会社に顔を出していた。そんなある日の深夜、田尻社長から「近所に本場の豚骨ラーメンの店があるらしい」と誘われ、スタッフ数人で食べに行った。それが「なんでんかんでん」だった。
 そこはもう店内中に豚骨の匂いが充満し、床は脂でぬるぬる滑る。しかし、その暗黒っぽい有り様とは裏腹に、味はびっくりするほどうまく、少食のぼくが進んで替え玉を注文するほどだった。
 それからは、たびたび豚骨ラーメンを食べるためなんでんかんでんに通い詰め……と言いたいところだが、ぼくが豚骨ラーメンに夢中になった期間はとても短かった。自分の胃袋の老化が進み、こってりスープが満ちたラーメン一杯を食べ切るのが苦痛になってしまったのだ。
 まず、麺の替え玉ができなくなり、やがて、最初の一杯さえも食べるのが辛くなってきた。頑張って食べ終えても、消化不良を起こしていつまでも胃がムカムカするようになった。下北沢のアパートから自転車を漕いで食べに行き、帰り道で吐いてしまったことは数知れず。美味しくないんじゃない。美味しく食べたのに、固い麺と豚骨スープに胃袋が耐えきれなくて、戻してしまうのだ。

 下北沢といえば、有名な珉亭の斜向かいにも豚骨ラーメンの店があった。名前をなんといったかは覚えていないが、そこはチーズがたっぷり入ったラーメンが売りで、スープの臭みと相まって抜群にうまく、飲んだ帰りによく食べた。しかし、そこもやっぱりぼくの胃袋とは相性が悪く、食べたあとはいつも全部吐いていた。あれはなんだったんだろう。

 豚骨ラーメンすべてと相性が悪いわけじゃない。千駄ヶ谷ホープ軒はあんなに背脂ギトギトでドンブリもでかいのに、ペロリと平らげられて、胃もたれもしない。でも野方ホープ軒は胸焼けする。横浜家系の豚骨スープは大丈夫なのに、有名チェーン店の「博多天神」はほぼ100パーセント食べたあとで腹をくだす。松戸にある「フクフク」もダメで、4度食べて4度とも吐いている。
 誤解しないでほしい。ここに挙げた店が悪いのではない。ぼくの胃袋が豚骨ラーメンを受け止められるようにはできていないということなのだ。同じ豚骨でも、とくに九州系との相性が悪いようだ。そのくせ懲りずに食べに行く。店にとっては迷惑極まりない客だろう。

 上野には「長浜や」という店があって、そこも臭さ全開で四軒隣りの吉野家で牛丼を食っていても豚骨臭が流れてくるほどだが、味はいいのだ。だから、上野でキンちゃんと飲んだ帰りにそこでラーメンを食べて、帰りの常磐線の車内で後悔したりしている。
 危険なのはわかっているけどやめられない。もちろん替え玉のような無理はしないし、スープもなるべく飲まないようにしている。恐る恐る麺だけを啜る。およそラーメンの食べ方としては不自然極まりないが、博多ラーメンの麺のように細い細い綱渡りをしながら、ぼくは豚骨ラーメンを食べ続けるのだ。

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