ご飯を食べることが出来て前向きになった話

食べることが好きで、食べることでパワーチャージ出来ると感じていても、自分の身体が応えてくれないことがある。
自分の気ままな胃のせいで、美味しそうと思うし食べたいと思うのに、全然食が進まない。
結果、食べることが苦痛になって、食事自体が嫌になることが、私にはある。

摂食障害という訳ではないと思う。
確かに、沢山食べたり、全く食べられなかったりで一ヶ月の間に体重が3キロほど増減することもある。
元々体重の増減があまりないタイプなので、ちょっと怖くはなるが、誤差の範囲と言えなくもない。単純な食べる量の問題であり、少なくとも自分の場合は一過性のものだろうと考えている。
医師の診断を受けたことはないが、そこまで深刻には捉えていない。

ただ、問題がある。
それは、他者の目の問題である。

自分の食べたいものを食べたい分だけ食べる。
これが完璧に実行できたら苦労はない。

しかし、他者から見たら少食、偏食は心配のタネになるらしい。

一生懸命食べようと思っても食べられないのだから、正直放っておいて欲しいと思う。
それに、もっと食べなさいと言われると、食べることが苦痛になって、もっと食べられなくなってしまうのだ。

学校給食で同じ経験をしたことがある人も、少なくないと思う。

一般水準に基づいて決められた量を食べなくてはならない。
しかし、口に合わなかったり、そんなにお腹が減っていなかったりで、正直言ってとてもじゃないが完食できない。

完食できないと、掃除時間になって机が下げられる中で一人、永遠と銀食器に向かい合わなくてはならないのだ。

もちろん、家のご飯となればもう少し緩やかな扱いになるが、私の場合は実家暮らしで母にご飯を用意してもらっている身なので、そう我儘も言っていられない。
作ってくれたという感謝の気持ちもあるし、この場合、食べる量はある程度母の基準に合わせなくてはならないのだ。

母の料理はとても美味しい。
お腹が空いている時はおかわりをすることもある。
でも、食べることが出来ない。

この矛盾が最も苦しめるのは、他ならぬ自分自身だ。

この感覚が分からない人には、全然食べないし興ざめだと受け取られる。
それがまた、辛いのだ。

有難いことに我が家では、時々予告なく訪れる私の食の事情に家族が慣れてきて随分と寛容になった。
おかげで、少しでも食べられたら良かったねと言ってもらえ、もっと食べなさいと強要されることは減った。

しばらくしたらまた食べられるようになるので、私は、元に戻ったら沢山おかわりして、料理を作ってくれる母に感謝を示すことを目標に、少食期間を必死に生き抜くのだ。

少し前までこの少食期間にぶち当たって苦しかった。
お昼ご飯に少量のスープしかいただけなかった状態だったのだ。サラダすらも喉を通らず、お腹は空いているはずなのに食せない。
だが、つい昨日、白米の代わりに茶碗蒸しを食べられたことで、少し前向きな気持ちになれた。

食べられないことの葛藤や苦しみ、罪悪感でネガティブになっていたが、ほんの少しだけ、希望が持てたのだ。

「もっと食べなよ」

この言葉は、とても優しく思いやりがあるが、時には強烈な刃にもなりうる。
沢山食べたいけれど食べられないという気持ちを持つ人がいることを、知っていて欲しい。

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