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今まで出会った人の中で本当にすごいなと思った人たち

はじめに

 
今までそれなりに多くの人と出会ってきた。ほとんどの場合、自分も含めて平凡な人か、平凡な人が何らかのきっかけを得て努力してそれなりに能力を身につけた人に分類される。後者の場合も、こういうモチベーションでこれくらい努力したらこうなるだろうなとある程度イメージできるものだ。しかし、世の中には言葉で説明ができないような稀有な才能を持つ人がいることも事実だ。今まで出会った人の中にもそういう人が何人かいるので紹介したい。到底今の自分や過去の自分がどんなに工夫して努力しても到達できない領域だと感じるばかりである。こうなりたいという憧れの感情よりも信仰対象のような気持ちになる。

一人目-中学校の部活の先生

 一人目はバスケ部の顧問の先生だ。その方の年齢はおそらく50を超えていた。にも関わらず中学生の僕たちの体力に匹敵するものがあり、体も引き締まっていた。毎日休みなく当たり前のようにランニングメニューや階段ダッシュ、ゲーム形式の試合をこなしていた。大人になってこれがどれだけすごいことかを痛感するばかりだ。ただでさえ何かを習慣づけるのは難しい。ましてや、夏場や冬場の季節的に厳しい環境に耐え、きつい運動負荷を自分の意思でかけ続ける。50を過ぎて体力的にも一層厳しいはずなのだが、その精神力には畏敬の念を覚えざるを得ない。
 その方を見てもう一つ憶えたことがあるのは、謙虚でプライドがないということだ。多くの大人は運動ができなくなってくるとその醜態を見せたくないという気持ちが働き、座って偉そうに指示するだけの人間になってしまう。その方はありのままを自分の体力に向き合い、それを何世代も年下の人たちに共有していた。部活のみならず掃除の時間もそうだった。ほとんどの先生は生徒が掃除できているかを監視し、立っているだけだった。その方だけは若い先生より一回りも年齢層が上だったにも関わらず、率先して雑巾掛けや机運びをしていた。中学生(しかも足立区)となると、先生は常に舐められないように威厳を保たねばというプライドを抱えるものだと思う。しかし、そのような環境でも背中で語るその先生には不思議な威厳が纏っていて、周りに一定の秩序が生まれていた。

二人目-高校1年の時に出会った天才

 後に東大理系に現役合格するその人は、高校一年の時に出会った。高校受験を終え、平凡な人が限りなく努力をした結果の天井は、ある程度こんな感じかなというイメージを持っていた。その人はその天井の遥か上を行ってしまった。高校一年の最初の頃のある日、その人は隣の席だった。僕は、そこそこ難しいと感じていた数学の問題を何時間もかけて解き、満足感を得ていた。それをその人に共有したく、「この問題解けたか?」と聞いた。彼は言った。「ああ解けたよ。で?」僕は驚嘆した。一般人の感覚で到底骨の折れるこの問題を、さも朝飯前のように解けたと言った。その人にとって当たり前の世界だったんだ。その後、理系に進んだその人は全国模試に何度も名を連ね、校内では文系の連中を差し置いて世界史で1位を取った。部活にも精を出しており家も遠いと言っていた。体力的にもハードな中、一体いつどうやって勉強しているんだろう?時間は平等なのにこの差は一体何なのか?説明できない不思議なことが世の中にはあるものだ。

三人目-大学1年の時に出会った陽キャ

 陽キャのトップは後天的になれないものなんだと悟った人だった。その人はとにかく頭の回転が早く口が回る回る。そして無限の体力を持っていた。ある日朝から夜遅くまで共にした機会があった。夜が更けるにつれて、自分含めてだんだん皆疲れが見えてきた。しかし、その人だけは常にハイテンションで口数が一切途切れることがなかった。周りの人はそのテンションに合わせることがもうできなくなって引き始めていた。同じような時間に朝起き、同じような行動をし、同じように時間が経過してエネルギー収支の条件は同じはずなのに、この差は一体何なのか?考えても合点がいくことは当分なさそうである。

四人目-大学4年の時に出会ったポジティブマン

 インターンで出会ったその人は、あまりにもポジティブだった。日本社会の教育や価値観を受けて育ってしまった人は、ある程度世間体を気にする思いや、ネガティブ思考の枠組みを植え付けられてしまうものだ。世間体は秩序をもたらす一方、個人の人生にとって足枷となる。しかし、その人はそれを打破する何かを持っていた。世間の評判を歯牙にもかけないで行動する。これをしたいと思ったことをとにかく全力で取り組む。次これをやりたいと思ったら、今までの積み重ねを全て取っ払い新しいことにチャレンジし続ける。本当に目の前しか見えていないように見えた。とてつもないエネルギーや生きる原動力のようなものを感じた。ネガティブに陥り、行動が止むことが一切ない。その人と深く話をしたことがあるのだが、その人は生まれてからこの方、周りの目を気にしたことは一回も無いと言っていた。私含めて多くの人は世間体を気にしながら生きていて、精神性に植え付けられている。ここから脱却するのはほとんど自殺行為並に難しいものだ。なぜ彼は日本社会においてそのような生き方が自然とできるのか?謎は深まるばかりである。

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