5.整備されていく価値観 - 代替日本
ある晴れた週末。覚香と歩はカフェのテラスにいた。
数日前、傘を受け取るという口実で、覚香は歩との食事の約束を取り付けた。
この店を提案したのは覚香だった。
以前この前を通りかかって以来、いつか利用してみたいと密かに憧れていた場所だった。
新しい店やコスメなどに興味が持てないと言っていた自分が、いざとなるとこんな女性ウケしそうな店を選んでいる。そのことを自覚し、自嘲した。興味がないのではなく、自分に手が届かないものへの嫉妬だったわけだ。
しかし今はそんなふうに屈折してる場合ではない。店の名前と位置情報を送信すると、歩からわかりましたとの返事が来た。
当日。
予定より早く着いてしまった覚香。先に店に入るのは気後れしたので、すぐ隣にある大きな公園をウロウロしていた。
人工の小川で遊ぶ小さな子供。ボールを打ち返すテニスラケットの音。楽しそうなカップル。鳩の群れ。花と樹木。青空。絵に描いたような休日の公園はまぶしかった。
その絵の中へ若い男性らしき人影がフレームインしてくる。この晴天に似合わぬ暗い色の傘を持っている。それを認めた0.5秒ほど後、覚香の胸はドクンと脈打つ。歩だった。
覚香に気づき、笑顔を見せる歩。
20メートルほどのその距離が、気まずいようなもどかしいような気分になり、覚香はヘラヘラ笑うしかなかった。
店員に案内され、テラスのテーブルに着く二人。そこから店内を見渡すと、そのほとんどが若い女性やカップルで埋まっている。
間接照明と、ざらっとしたヴィンテージ調の木材で統一されたインテリア。窓の外には、日の光を受けて緑や黄緑に輝く樹木が見えた。薄暗い店内とのコントラストが美しかった。
今度は外へ目をやる。さっきの公園の光景が広がる。やはりまぶしい。
二人とも無職なので週末である必要はなかったが、たまたまこの日になった。忙しげな平日の街とは違う、なごやかな空気。その絵の中に自分たちも溶け込んでいる。
他愛のない話をしながら、二人は風に吹かれた。髪が風に揺れる。しかし再会したあの夜とは違う、打ち解けた空気だった。青空のもと、終始笑顔の歩がいた。
注文したランチプレートが運ばれてくる。
ボリュームのあるサンドウィッチに、スープやマリネなどの副菜が添えられている。ビジュアルはオシャレなカフェのそれだった。
「僕らサンドイッチばっかり食べてますよね」
そう言ってかぶりつき、齧歯類のように頰をぱんぱんにふくらませる歩。覚香もとりあえず口に運び、美味しいと言ってみた。しかし本当は、味のことなどほとんど意識になかった。
ゲーム三昧の日々を楽しんでいると歩は言った。延々、とあるオンラインゲームの話が続いた。
覚香は歩がゲームの話をしているのを見るのが好きだった。一緒に帰っていた頃も、彼はしょっちゅうゲーム話をした。しかし内容についてはさっぱりわからない。
「外村さんも一緒にやりませんか!めっちゃ楽しいですよ!」
それはMMORPGというジャンルで、他のユーザーとチャットで会話しつつストーリーを進めていく、ロールプレイング式のゲームだった。
その美しいグラフィックや動きを再現するには、それなりに高スペックの端末が必要とのことだった。
「電気屋街で安く手に入りますよ!良かったら選び方教えますよ!」
普段から楽しそうに話す歩だが、ゲームの話になるとなにかに取り憑かれたような妙なテンションだなと、覚香は思った。
このままだとゲームの話が終わりそうにない。覚香はそれとなく水を向けてみた。
「じゃあ今、たっぷり充電中なんですね。充電完了したら作っていくんですか?前言ってたアプリとか」
「はい、そうですね。実はゲームしながらちょくちょく調べてはいるんですよ、技術のほうも」
うんうんと頷く覚香。
「なんとなく、こんなふうに作ろうってイメージはできてるんだけど、けっこう難しいんですよねー。画面の遷移とか、どんな機能が必要かとか。そういうの考えるの」
鞄からペンを取り出し、テーブルの紙ナプキンを一枚広げ、そこにいくつか長方形を書き始める歩。
「たとえば、この画面とこの画面……」
そのとき、スイーツらしきものが乗った皿が運ばれてきた。
「女性のお客様には、サービスでデザートをお付けしております」
覚香の前に皿を置き、去っていく店員。
「わあ、美味しそう」
思わず喜ぶ覚香。
しかしせっかく始まったアプリの話を中断させておくわけにはいかない。
「えっと、この画面とそっちの画面が……?」
覚香は話の続き話をふってみる。しかしなにやら不満げな歩。
「えー、そんなのずるい」
「……?」
何のことを言ってるのか一瞬わからなかったが、歩の視線はデザートに向けられていた。
「あ、デザート??」
「だってぇ、そんなの平等じゃない。差別だ」
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覚香と歩が出会ったこの頃はまだ、男女平等とレディファーストが混在している時代だった。
いや、混在と言うよりも、今も残る女性の不遇への埋め合わせとして、特別な恩恵というものが用意されていたのかもしれない。
(あるいは消費社会においてはただ単に、そのほうが売れるという市場原理が働いただけかもしれないが。)
覚香自身も、そういったものなんだろうと、深く考えたことはなかった。
しかし歩の指摘を目の当たりにし、たしかにそういう視点もあるべきだと思った。今まで、男性がそんな不満を口にする場面を見たことがなかった覚香にとって、それは新鮮な指摘だった。
どちらかと言うと覚香は、自分よりも少し上の世代の男女観に囚われていた。
女も男と同じように、あるいはそれ以上にバリバリ働き、強くたくましく、ときには男を見下した発言をするくらいがかっこいいというような、そして男性の側もそれを笑って軽くいなすというような、そんな空気がたしかに上の世代にはあった。
歩は覚香より7つ年下だ。世代的な感覚の差でもあるのかもしれないとも思った。
過去の男性と女性の間にはいろいろあったかもしれないが、ときに草食的とも言われる世代の歩には関係のないことだった。
実際彼は、相手が男であれ女であれ、どんな立場の人であれ、等しく丁寧な対応をする。過去の男性たちがやってきたことのせいで、今の時代の歩たちが割を食わなければならない道理はないはずだ。
ただ、それが完全に過去の話かというと、そうでもない。今でも女性が不利な場面はある。貧困女子という深刻な問題も現に存在する。かと言って、“総体としての男性”が完全に有利かというと、そういうわけでもない。
男だから我慢しろとか、身を削れとか、泣き言を言うなとか、男性だけに負荷や責任が多くかけられる場面もある。
ともあれ、現代においてどっちが不利かなんてことは、ケースバイケースでもあるし、評価の仕方はとても難しい。
それに時代は、男と女といった属性ではなく、個人として捉える時代へと移行しつつあるのだ。
カフェでの出来事は、後々の覚香にこのようなことを気づかせるきっかけとなった。
社会通念としての価値観は、こんなステップを踏みながら、無秩序な状態から徐々に整備されていくのかもしれない。
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「たしかに。今まで気にしたことなかった」
自分が女だから気づかなかったのだろうと覚香は思った。
「女性専用車両ってあるじゃないですか。あれってたいてい、改札から近いとこにあるんですよ。それで僕、隣の車両まで走ってたら乗り遅れたんですよ、ひどくありません?」
覚香は、歩が不満を口にするのを見て、思わず笑ってしまった。決して馬鹿にしてるわけではなく、率直さがあまりに潔く、見ていて気持ちよかったからだ。
「一部の悪いヤツのために、僕ら普通の男が閉め出されるって」
歩はまだぶつぶつ言っていた。
どうやら彼は、社会における男女の問題に関心があるわけではなさそうだ。ただ、自分視点での不満を率直に表明しているだけのようだった。
覚香はデザートの皿を中央に差し出し、添えられたスプーンとフォークのどちらかを歩に渡した。
二人は一緒にそれを食べながら、アプリの画面遷移について話し合った。
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それ以降、二人はアプリやサービスのプロジェクトを進めた。
基本的にリモートでのやりとりだったが、ときどき打ち合わせのために会うこともあった。互いの部屋を行き来することも徐々に多くなり、二人は自然と距離を縮めた。
と言えば、さも自然に縮まったようだが、実際はどちらかがそれとなく縮める工夫をしたこともあれば、それなりに感情的な高まりもあったはずだ。
しかし長い物語の中で、その詳細は全体の質量によって圧縮され、多くを語られることはなかった。
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