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確立された世界観を目指して|マティス展

先日、東京都美術館で開催されたマティス展(2023/4/27~8/20)に行ったのでその感想とかをつらつらと。

フランスの画家、アンリ・マティスはフォービスム(野獣派)を主導した一人であり、色彩豊かな作風が特徴だ。企画展でもその原色が大胆に使われた画面が目を引いた。
大抵の企画展は展示に合わせて壁紙の色を章ごとに変えることが多いが、マティス展の壁紙が白一色だったのは、マティスのその強い色彩に配慮してだろうか。珍しい企画展の配色は新鮮ながらも違和感を感じず、さすがは都美術館という感じだ。

臨界点を超え続ける
マティスは大戦期を生きた画家だ。2章の『ラディカルな探求の時代 1914-18』の解説文には「マティス自身も兵士に志願したが採用されず、絵こそが戦線そのものだった」のようなことが書かれていた(写してはないので記憶です)。武器ではなく筆を取って戦争に関与したというのがかっこいい。一次大戦期の絵は暗めの色調だったり、モチーフに窓が出てきたりと、やはりラディカルな探求と題されるように戦間期による心情の変化があるようだ。
またマティスは絵だけでなく彫刻や切り絵なども手掛けており、それらの作品も鑑賞することができた。切り絵に至ったのは晩年の衰えも原因だが、色と形を極限まで単純化できる色紙というのは、1章の解説にあった「色彩と線のぶつかり合い」に葛藤していたマティスなりの最終的な答えな感じもする。
マティスは生涯で作品への探求をやめず、臨界点を超え続けた画家だろう。『座るバラ色の裸婦』は下書きの線が無数に残り、何度も画面上で試行錯誤したことが伺える。戦間期の変化や、彫刻や切り絵にも取り組んだことも含め、マティスの作品に対する情熱というか執着というか、とにかくその折れない探求心に感服した。

『座るバラ色の裸婦』


変化の中で貫く世界観
マティスの作品はキャンバスに塗り残しがあったり、モチーフがけっこう抽象的だったりという絵も多かった。いわゆる一般的な整った絵と比較すれば、これで完成?手抜きでは?と捉えられるような絵かもしれない。
しかしながら私たちはそれらの作品に価値を見出しているし、マティスの絵は額縁に入れられ堂々と美術館に展示されている。
なぜ価値を感じるのか。それは確立された世界観が存在するからだろう。独特の色調はどの作品でも健在で、一目見て「マティスの絵」とわかる。
確立された世界観というのは絵の上手さをも度外視して価値が生まれる。マティスが著名だから価値を感じるのではなく、マティスの一貫した世界観に価値を見出している。
マティスは生涯にわたって探求心を持ち続けながら、自身の世界観を貫き通していた。
世界観が明確に存在して、他の評価なんか考慮しないかの如くそれを貫き通しているところが、絵を描く私からして畏敬もしたし羨ましいとも思った。


画家というのは段々と絵が崩れてゆくことがある。ピカソが実はめちゃくちゃ絵がうまいけどキュビズムに傾倒したみたいな話は有名だ。去年、シーレ展と岡本太郎展に行ったが、どちらの巨匠も初期は写実的な絵を残しているということを知った。マティスも例外ではない。初期の作品である『読書する女性』は写実的だった。だがフォービスムを経て次第に世界観を確立していったのだ。
このように作風が変化していった画家もいれば、例えば私の好きなシスレーは典型的な印象派として風景画を描き続けたし、モネは睡蓮というモチーフに魅力を感じて連作に取り組んだ。
どのような作風でもモチーフでも、画家たちは自分の世界観を保持して、自分が描きたいものを描いている気がする。
そうではなく、評価されることを先行して絵を描くのでは、果たして自分の世界観は確立できるのだろうか。
私は絵を描くのが好きだからといって、評価されるために絵を描いてはいないだろうか。絵が自己顕示のツールになっている気もしなくもない。

ずいぶん前、Twitterに「文芸の価値観は、他者からの評価と自身の驕りとの葛藤かもしれない」みたいなツイートをしたことがあった。
これまで美術館で触れてきた巨匠たちのような貫き通した世界観と自信を獲得するためには、まだまだ未熟すぎるのだと今回のマティス展で考えていた。


とてもいいきかくてんでした。

おわり
―――
秋から冬にかけて上野でモネの企画展が連続することに驚き。楽しみ。その前にテート美術館展に行かなくちゃな。
美術館の投稿はいつも自分の創作に帰着しちゃってすみません。

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