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月明に想う

八月が終わり、脈絡もなくただ徒然と。最近のこととか。

夏が終わった。まだ残暑は続くだろうが、やはり夏は8月までという感じがする。大袈裟に夏が終わったなんて言っても、特段夏に対して強い意識がある訳でも目標を持っていた訳でもない。ただ自由に与えられた時間を暇な時間として消費し続けただけだ。しかし世間は何かと夏をヨイショしたがる気がするので、一応夏が終わってしまったという感情を私も持っておこうと思い筆を執る。とりあえず愛すべきミスチルの「君がいた夏」を聴いて今年の夏を締めたことにする。
2ヶ月もある大学の夏休みは膨大に感じられるが、あっという間に終わってしまう。この感覚は4年生になっも同じで、残る休暇は9月の前半だけだ。
相変わらず暇人を極めていた私は特筆すべき経験や活動はなくて、夏の思い出は新潟と九州を鉄道旅したことくらいしか辛うじて挙げられない。バイトの先輩に誘われ付いて行ったが、にわか鉄道ファンの私は乗車券と特急券でこんなに浪費するとは思わなかった。SLに乗ったり路面電車に乗ったり、東京で生活していたら普段は見かけないだろう車両に乗れたのでまあ楽しかったけど、お金を使い果たしてしまってかなり痛い。バブアーを買おうと思ってたんだけどな。去年も買った?今年はネイビーが欲しい()
そういえば、九州の帰り新幹線に乗った。そしたら、車内チャイムがAMBITIOUS JAPAN!から変わっていた。この違和感も徐々になくなって、慣れてゆくものだろうか。
車内チャイムにも言えるが、車両の引退や駅舎のリニューアルなど、かつてのものが消えてしまうのは寂しい。しかし、この変化し続けるところに私は鉄道の魅力を感じる。機械的な関心があるというより、鉄道をある種の文化財のように楽しんでいる。そう思うと少し関心が湧いてきませんか。

熊本市電に乗ったら床が木だった。吊り掛け駆動だし、古さを感じれて良い。


話題は変わって、私は地元の友達が少ない。ただでさえ少ないのに高校卒業後に地方に行ってしまったり、差しで遊ばなくなったりという友達ばかりで、高頻度で会う地元の友達は皆無だ。夏休みになると大学の友達は住む地域が異なるので繋がりは少なくなる。だからといって地元の友達と遊ぶということが私にはないのだ。こんなこと書いて独りを嘆きたい訳ではなく、寧ろひとりで行動するのが好きなので現在の環境が快適なのだが、よくもこの「休暇に遊ぶ友達が居ない大学生」を4年生まで貫いたと振り返って驚く。大学の友達はスポーツ好きが多いので、文化全振りの私の趣味に個人的に付き合ってもらうのは気の毒すぎる。大学の友達とはやはり学校終わりに飲みに行ったり、サッカー観に行ったりが楽しい。思い出していると学校が早く始まってほしくなる。
ところで、ストーリーを見ていると人それぞれの趣味とか生活スタイルがあるのだなあと思う。ツーリングしてる人とか野球観戦してる人とか、海外行ってる人とか本当にさまざまだ。自分の好きを各々が貫いていて素敵だ。ヨーロッパ旅行とか本当に羨ましい。こういうのを見ていると自由な時間があったのだから、もっと活発にきらきらした生活をするべきだったと勿体ない気持になるときがある。みんなのストーリーを見ながら、もっと時間を有効に使うべきだったと自省の念に駆られる。それでも、ひとりで絵画鑑賞とカメラの趣味を楽しむという選択をした私の生活は、他人に羨望されずとも誰にも模倣できないひとつの生活様式なのだ。と、自分に言い聞かせるしかないのだが。
プロフィールにあるように「文化を愛して低徊に生きる」現状維持的な生活を掲げているので、今後も波風を立てずに余裕をもって文化的な生活ができればいいな。
執筆をしながら目を横に遣ると描きかけのキャンバスが。6月に行ったブルターニュ展に触発されて、ブルターニュ地方の海を描いた油絵は未完成のまま9月に突入した。秋に海の絵を完成させるのか。低徊であっても怠惰にはならないようにしたい。


8月の最終日に前期の成績が開示された。無事、卒業に必要な単位は修得したようだ。そして9月の初日に内定先から内定式の案内が来た。段々と社会に放たれる時が迫っているのだと感じる。
大学入学と同時にコロナ禍で1年次はほぼ通学せず。2年になれば必修も減るので通学は週3くらいで、4年前期に至っては週2回だった。もはや平日の週5日活動する感覚を忘れた。こんな生活を何年も続けていたので、社会に順応できるか半ば不安ではあるが、この先の新しい環境と出会いに期待もある。コロナとかいうイレギュラーもあったが、私の大学生活は最終盤を迎えようとしている。終わり良ければ総て良しとか、有終の美を飾るという言葉があるように、最後まで羽目だけは外さないように。


31日のバイト帰り、月を見た。どうやら31日はスーパームーンでブルームーンだったらしい。確かに何時もよりも大きかった気がする。夏の終わりに月を眺めながら秋を想う。
月見れば 千々にものこそ 悲しけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど
最後に百人一首の23番、大江千里の歌を借りて締める。
必ずや訪れる季節の変化を、活発でなくても穏やかに越えて行きたい。



おわり

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