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カラダの音を観じて創造する

一生やらねばならないと思っていたことを手放せたことが
人生の大きなターニングポイントになるだなんて
その時は全く思ってなかったんだ。
その手放したことってのは「病気」なんだ。

自分と向き合う

病気をしたら治すのが当たり前だから治療するとか。
医師の判断がそうだから言われるがまま治療するとか。
エビデンスがそうだからデータに従って治療するとか。
自分のカラダなのに、自分のカラダを無視してたんだ。
自分が全くなくって、自分自身に対して無責任過ぎたんだ。
だから、
しっかりと自分と向き合って
自分をセンシティブに感じはじめたんだ。

自分を受け入れていく

自分と向き合い自分を改めて感じてみると、
私は病気になった自分を責め続けてて(汗)
「こんな私じゃダメだ」っていつも自分を責めることばかりやっていてさ。
私自身にいっぱいバツ印をつけていたことに気づいたんだよね。
だから、
私は病気を見つけることばかりを続けてて(汗)
不調を見つけては病院に報告して治療することばかりやっていてさ。
心が楽しむことや喜ぶこと、カラダが快いことや嬉しいことを我慢していたことに気づいたんだよね。
そして、
私は病気になっては「死なないように」って思い続けてて(汗)
病気を見つけては治療をしての繰り返しを続けることばかりやっていてさ。
"いつか必ず訪れる死"を受け入れられないから生きることも受け入れられなくて、自分の人生を放棄していたことに気づいたんだよね。

だからさ、
病気の自分のままでもいいって思って。
そのまんまで、自分の人生を死ぬ気で楽しんで生きようって思ったんだよね。
そしたらさ、
「病気」がすんなりと手放せちゃったのさ。

手放したら入ってきた世界

今まで当たり前だと思っていた「病気」の世界を手放せちゃったら、
そこには「カラダ」の世界があってさ。

カラダの声に常々耳を傾けること。
カラダの音を受け取ること。
受け取った音の波動のままにカラダを動かすること。
体の動きのままにカラダを働かせること。
カラダの働きのままに日常が創造されること。

カラダは全部知っていたんだ。
自分の人生を創造する感覚と感性がそこにあったんだ。
https://www.kannonseitai.com

忙しいほど暇!という発見

忙しいってのは、何が忙しいって?
頭が忙しいのよ。
そんで、
暇っていうのは、何が暇かって?
カラダが暇なのよ。
頭って勝手に思考するのさ。
驚く程に自動的なのさ。
ひとりで旅行へ行ってたときのこと。
ワタシ、世界遺産の自然の中に居るのに
「あ、洗濯取り込むの忘れないかな?」
とか
「冷蔵庫にあるカレー、食べてくれてるかな?」
とか
家にいる家族のことを勝手に考えてんの。
頭の中の家族のことばっかり考えて、
勝手に心配して。
勝手に不安して。
独り相撲してんの(爆)
んで、
カラダで観じてないの。
イマココを観じてないの。
イマココをほんっと生きてないの
( ´_ゝ`)
もったいない生き方だなと、
まじまじと感じたのでした。

忙しいときほど暇を活用する

忙しいってのは、何が忙しいって?
頭が忙しいの。
で、
暇っていうのは、何が暇かって?
カラダが暇なの。
だからね、
このカラダの暇を活用してみたの。
まずは、
カラダと話しをしてみたの。
朝のコーヒータイム
カラダに聴いたことある?
「このコーヒーどう?」って
ワタシのカラダ→「・・・。」
最初は、
カラダと話しできなかったなぁ。
んでさ、
「仕事に間に合わなくなるぅぅぅ💦(職場のみんなに迷惑かかる)」
「子供の着替えまだかいぃぃぃ⁉️(保育園に迷惑かかる)」
「ゴミ捨てなくちゃぁぁぁ❗️(何で手伝ってくれないの💢夫クソ)」
とかグルグルグルグル🌀って
すぐに頭が忙しくなっちゃって(苦笑)
また、
頭の中の他人のことばっかり考えて、
勝手に心配して。
勝手に憤慨して。
独り相撲してんの(爆)
イマココをほんっと生きてないの
( ´_ゝ`)
でも、
また頭が忙しいとか
また頭がうるさいとか
その感覚が掴めたことは大きな成果。
グッジョブカラダᕦ(ò_óˇ)ᕤ

カラダから話しかけてくれた話

カラダの暇を活用して
カラダと話しをしようと
しばらくの間試みていたワタシ。
頭が忙しい
頭がうるさい
その感覚がつかめて
あぁ、またやってるって
頭の上にある
( ー̀ωー́ ).。oஇ←コレを
手で払い除けたり
コレ私のじゃないって
(っ'-')╮=͟͟͞͞ブォン
つかんで投げ捨たりしてね(笑)
そんなことをしながら
カラダを気にかけ
話しをするチャンスを伺っていたの。
そしたら
とうとう向こうから話しかけてきてくれたのさ。
♨️ あ゛〜(´Д`●)〜♨️
お風呂に入ったときのコレ↑
カラダは全身全霊で至福〜💕を伝えてきたのよ。
そしてワタシは
ソレ、知ってた(☝︎ ՞ਊ ՞)☝︎
ごめん🙏
ってなった(爆)
ただ単に、
ワタシのカラダが観じてる感覚を
ワタシが受け取ってなかっただけだったのさ。

カラダが観じたことをカラダで受取る

カラダが一生懸命話しかけてるのに
頭の忙しさでカラダを忘れていたワタシ。
カラダから痛いと話しかけられても
痛みをすぐ止めちゃってたよ。
カラダから一生懸命話しかけていたのに、ワタシが勝手に無視したよ。
だからカラダとしっかり対話をはじめたのよ。
ワタシのカラダが観じていることを
ワタシのカラダで受け取ることを。
こんな当たり前をトコトン丁寧に。

頭は常に判断で忙しい

カラダの暇を活用して、
カラダと話しをしようと試みたら
頭の忙しさから距離がとれるようになって。
頭の忙しさやうるささに気づけるようになって。
頭の中が覗けるようになってきたさ。
( ー̀ωー́ ).。oஇ←ココね
例えばこんな感じね↓
「仕事に間に合わなくなるぅぅぅ💦→職場のみんなに迷惑かかる→そこに居られなくなる→仕事できなくなる→金が入らなくなる→支払い滞る→∞」
「子供の着替えまだかいぃぃぃ⁉️→保育園に遅れる→保育園に迷惑かかる→保育園で子供の肩身が狭くなる→保育園へ子供が行かなくなる→私が子供を見てなくちゃならなくなる→仕事に行けなくなる→∞」
「ゴミ捨てなくちゃぁぁぁ❗️→手伝ってくれない→なんでワタシばっかり→私のこと大事に思ってない→一緒にいる意味ない→ひとりの方が楽→夫クソ邪魔→そういえばこないだも手伝ってくれなくなかった→∞」
判断が無限につづくのであります(´-ω-`)
しかも、勝手な判断。
頭は無限に判断しつづけられるんだっ!
しかも勝手な
想像というか
妄想というか。
そりゃぁ、頭フル回転になるから忙しいはずよ。

カラダは足るを知っている

忙しい頭の代わりに
暇なカラダに働いてもらったさ。
一生懸命
カラダで観じて
それを
カラダで受け取ったさ。
そしたら、
♨️ あ゛〜(´Д`●)〜♨️
お風呂に入ったときみたいな
こういうヤツを↑
カラダはよ〜く知っていたさ。
カラダを働かせると
満ち足りた感覚を知れたのさ。
足るを知るってこれなんだ✨って目から鱗👀
頭を忙しく働かせると
どこまでもどこまでも判断をつづけられて
∞に求めつづけられてしまうんだけれど
足るは知れないんだぁなぁΣ('◉⌓◉’)

頭はカラダをコントロールする

忙しく働いている頭の中を覗いてみたら
勝手に判断をしていたのさ。
良いとか悪いとか。
好きとか嫌いとか。
得するとか損するとか。
勝つとか負けるとか。
そして、
勝手に想像をしていたのさ。
( ー̀ωー́ ).。oஇネガティブマインド
↑こんな風にならないようにとかの想像。
✧(✪д✪)✧。oஇポジティブマインド
↑こんな風になるようにとかの想像。
んで、
頭に従うようにしてカラダを動かしていたのさ。
だから
カラダが暇じゃないと頭は困るのさ。

頭じゃなくてカラダの楽を観じる

頭の中が
ネガティブだったら
ポジティブにしようなんて
よくやっていたけれど。
そんなことをしたって、
頭は余計に忙しくなっちゃうんだよね(汗)
だから、
カラダの暇を活用して
カラダが観じたことをカラダで受取ることをしてたら
またやって来た
♨️ あ゛〜(´Д`●)〜♨️
お風呂に入ったときみたいなこういうヤツ↑
そして、
これを受け取っているときのカラダを
さらに観じてみると
カラダがすごく楽〜✨って観じたのさ。
よく、"楽観的"って言うけれど
これって
頭の中じゃなくて
カラダが観じた楽な状態だって理解したのさ。

カラダが楽だとカラダが働く

カラダの楽が観じられるようになったら
楽なカラダが嬉しくて💕
楽なカラダばかりを観じるようになったのさ。
何をやるにも
楽なカラダを観じて受け取っていったのさ。
そしたらカラダがよく働くようになって
超苦手だったマラソンまでできるようになって
ハーフマラソン大会なんか
自ら出ちゃってさ💦
自分のカラダの働きに驚いたのなんのって💦
今までどんだけ
頭の言いなりになって
カラダを酷使してたんだろって💦
もうカラダしか愛せないカラダになってしまったのさ(爆)

カラダの働きが自然と一体になる

楽なカラダが嬉しくて
楽なカラダばかり観じるようになったら
カラダがよく働くようになってさ。
カラダの観じるままに
アレコレやるようになってさ。
いつのまにか
全てをカラダに委ねていたのさ。
そしたら
カラダが自然と動くようになって。
カラダが全てと繋がっている感覚になって。
いつのまにか
全てと一体となってね
ダンスしているみたいになったのさ・:*+.\(( °ω° ))/.:+
これがなんとも心地よくて。
♨️ あ゛〜(´Д`●)〜♨️
お風呂に入ったときみたいな
こういうヤツ↑よりも
深くじんわ〜りと浸透した
ゆった〜りな喜びを観じたのさ。

カラダはワタシを超えていく

全てと一体となってダンスしているときの感覚が
カラダの芯までじんわ〜りと浸透して
ゆった〜りと地に足がついているような不動な喜びを観じてさ。
そのまま
カラダに委ねて
カラダの自然な動きのままに
日々を過ごしていったのさ。
そしたらいつのまにか
ワタシはワタシをドンドン超えていったのさ。
頭が常に判断しているのは
"自分の認識できること"を判断していてさ。
"認識できないこと"は『ありえない』と判断してさ。
でも、
自分が認識できないだけで、実際には存在していることってたくさんあってさ。
カラダは判断はしないから
目の前に起きている現象を
カラダが淡々と観じていくのさ。
体験して観じることで『ありえる』と観じるのさ。
カラダは体験をたくさん積んで
いつのまにか『ありえる』世界はワタシの中に広がっていたのさ。
コレってさ
ヘーゲルが言う
「矛盾を超えることで進歩は生まれる」
ってヤツだ!って理解したさ。
頭は常に矛盾(認識にない世界)を回避するために判断をしていて
"自分の認識できること"の中で留まるんだけど
カラダは常にカラダを働かせて体験をして『ありえる』を観じて
『ありえない(矛盾)』を自然と統合していってしまってさ。
そうすると、
世界観が広がるから
自然と前に歩み進んでいっちゃって。
またそこで新たな体験ができるから
カラダで観じて世界感を統合してさ。
「今の自分」を自然と超えてしまったのさ✨

私らしさはカラダが知っている

"私らしさってなんだろう?"
10年ほど前に湧きあがった問い。
"私らしさ"を考えても考えても
ぜーんぜん分からなかったんだけれど
頭で考えて分かることじゃなかったのさ。
カラダが自然と働いて
カラダが自然と動いて
カラダが自然と振る舞って
自然な流れとなっている
自然な様(さま)が
"私らしさ"っつーヤツだったのさ。
頭で色々考えて
"何が正しいのか?"って
ひとつの正しい答えを求めるという
学校や周りからの教えをもとに
自分の行く末を選択してさ。
そうやって
頭でカラダを動かしちゃってたから
カクカクしちゃって不自然で
カラダからしたら不本意だから
カラダは緊張しちゃってさ。
そりゃぁ
カラダは無理するよなぁ。
カラダが働かなくなるよなぁ。
そりゃぁ体調を崩すよなぁ。
って、
体調がずっと思わしくなかった頃の自分を振り返って納得したさ。
確かな"正しさ"をめぐる判断に振り回されて
自分を見失っていたってことだったのさ。

私自身が価値

カラダを意識して
カラダを観じていったら
自然と自分が自分であってさ。
もしかしてこれが
マズローの言う自己実現⁉️
ワタシを超えていくのが
マズローの言う自己超越⁉️

こんなにも様々な経験が積まれてある私自身って
そのままで価値だよ。
そしたら
私がやることといったら
自分を見失わないことだよ。

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