短歌連作「春の遺跡」を読む

  よい歌とはどのような歌であろうか。私も十年ほど前までは、多くとってもらえるようにと思いながら歌を作っていたものだった。しかし、よい歌を自分が詠むことよりも、よい歌に出会い、それらを読むことの方が余程楽しいと感じるに至った。自分が短歌の作家側ではなく読者側にすぎなかったと気づいたのだと言えばそれまでだが、もう少し「よい歌」を巡る問題圏を捉え返すならば、「よい」という価値判断は事実の前にあるのではなく、歌が詠まれたその後にしかないのではないかということなのだろう。
 短歌研究2022年7月号に載っている塚田千束さんの一連はとてもよい歌であった。「春の遺跡」と題された20首は、淡くはかなくも透きやかな詩情を湛えている。

 この春も見送るばかりすこしずつ厚みを増してゆく皮膚たちよ

 「この春」は、後に「死者数」の歌があるように、感染症時代を生きるわれわの春である。そのどうにもならない時間の順行にあって、自分の体のゆるやかな変化へと呼びかけることで、あきらめとも諦観ともつかない現状への配慮ある観察と明快な点呼が為され、一連ははじまる。
 
 死ぬ星を幾度も眺め生きる星を幾度も眺め車窓はつづく

 眼窩という窓枠なぞる指のはら ふちをのぞけば遭難しそう

 眠るまでの途方もなさよ胸押され吐き出すがらんどうのゆめたち

 吹き抜けのホールで細い枝のばし桜はひとり散りはじめたね

 主題はempty(からっぽさ)であろう。「眼窩」・「がらんどう」・「吹き抜け」の言葉からも、はかない空間において展開されている詩なのだということが理解される。(その後、「駅の構内」・「高架下」・「水仙」とモチーフは続く。)このはかなさが単なる悲観に流れずに、そこで如何に生きようかという問いへと繋がるのは、言葉選びの卓越さから来るものだろう。

  生きるとは見上げることで午前二時すれ違う人のない空には星

  ほんとうは戦いたかった春雷にまけないようにさけびたかった

 短歌文芸は同じ詩であっても、現代詩のテーマになりやすい大テーマよりも個人的なことを描きやすい。もちろん、政治的なことは個人的なことであるとしても、短歌は観察をバネに社会や人類へと想を巡らせるときに、より力を発揮する文芸であろう。また、同じ律であっても、ポップスのように恋愛を肯定的に語ったり、悲恋を直截に嘆くよりも、生きづらさを丁寧に読む方へ、読者を共感の方へと向かわせるときに力を発揮する文芸であろう。そのような観点から、「春の遺跡」の20首を読んだとき、emptyという主題が生き方の問いへと想像を巡らせるような詩情を湛えていることに瞠目させられる。
 この詩情はしかし、技術だけのものではないように思える。

  Spring has come  モールス信号をきらきらかざして雪解けの川

 何気ない一首のようだが、「モールス信号」の音は、メメント・モリ、つまりは死へと響きを連ねていると読んだら、それは曲解だろうか。20首の連作は、生と死の循環、或いはその二つが同居している空間こそが問題にされていると読める。

  空港を好きになりたい浮遊するときうろたえる臓器のわたし

  抱卵の姿勢で生きる丸まった背中をなでるあまた星の子

 作中主体は臓器提供を受けて新しい半生を生きていると読み込むのはあまりに読者の身勝手だろうか。私には、「春の遺跡」の20首はその読みが想定されていなくても、十分に(そして作者の意図の外に)予定されているように思える。なぜなら、この身体が自己であり同時に他者でもあるという空洞性を強く意識する場面とは、自己の身体に別の生命が宿るときであろうからだ。しかも、「遺跡」が象徴するように、もう失われてしまったものが、その記憶のよすがだけが、洞の中に置かれているのだ。つまり、その別の生命とは死者であるかもしれない誰かなのである。
 作中主体の「空洞性」をそのように、自己の現在だけではない、失われたものたちとのつながりと読んだとき、一連の透明な詩情は、決して淡いだけではい、又、はかないだけではない問いへと繋がる。その問いは、もしかすると逡巡も含んでいるかもしれない。又、その問いは、もしかすると外からは弱い迷いと切り捨てられるかもしれない。しかし、逡巡や迷いだけに収まり切れない何ものかが、短歌という格好の器を得て、ここには透きやかに湛えられている。


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