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映画感想「658㎞、陽子の旅」

 旅は人生を写し、人生は旅に現われる。熊切和嘉監督の『658㎞、陽子の旅』を新宿の映画館で観た。主人公の工藤陽子を菊地凛子氏が演じる。
陽子は就職氷河期を経験した42歳。青森の実家から18歳のとき父の反対を押し切って上京して以来、20年以上、父には会っていない。それでも、出棺に立ち会うように促され、青森までの658㎞を旅するというロードムービーである。旅でのおおくの人々の出会いを通じて陽子は成長する。一人の人間が感情を揺さぶられることで、その声を取り戻すまでの物語だ。ストーリーを追いながら、初見で思ったことを箇条書き風に綴りたい。

 物語の発端は父の死の知らせが陽子の許に届くところから始まる。今や陽子は、夢かなわず、散らかったアパートにひとり引きこもり、在宅でもできるPCメンテナンスのオペレーターをして糊口を凌いでいる。自堕落な生活を送る陽子の許へ訃報を伝えにやってきたのは、竹原ピストル演じる陽子の従兄だった。まず、このアパートのシーンの乱雑さが生活に追われる現代人という感じが身に迫ってきて、いい。陽子のアルバイトは、利用者からの苦情にメールでメンテナンスについて応答をするという、誰しも一度は利用したことのありそうなあれである。在宅の仕事とはいえ、利用者への迅速な対応が評価に直結する仕事だ。拘束時間は利用者次第となる。湯を沸かし、コンビニ弁当を開封しようとするや、利用者からの着信音が鳴る。しかし、少しでも応答が遅いと利用者アンケートが低評価となる。そんな低評価コメントを目にしながら、コンビニで買っておいたスパゲッティーを啜る陽子の顔の表情は苦々しい。コンビニ弁当が冷めておいしくなさそうな感じも伝わり、観客も苦しくなる。冒頭のシーンから菊地凛子の表情のみで主人公の陽子がどんな過去を背負い、今どんな心情なのか観客の想像をかき立ててくる。

 竹原ピストルも良かった。彼の演じる従兄こそが陽子を青森への旅へ促し、その旅が困難なものとなるきっかけを作る。いわば物語を駆動している。あらすじだけ追えば、その駆動はお仕着せ的で映画に都合が良すぎると受けとられかねない。たとえば、竹原演じる従兄がアパートを訪れたとき、陽子はいぎたなく眠り込んでいる。ドアを叩く音はなかなか聞こえず、陽子はまだベットのなかだ。そこを借金取りのように陽子が出てくるまで、常軌を逸しているほどにドアを叩きつづける。だが、竹原ピストルという俳優の持つ佇まいが、この異様さを近親への思いやりゆえという説得力に変える。或いはまた陽子と従兄家族が道の駅についたとき。(付言。ここまで、竹原家族が子どもに過保護な現代の父母にも見えるのだが、後の展開や他人の子どもの危険にも竹原が素早く対応するカットなどから、どうも、息子にはもともと何らかの疾患があり、それゆえの過保護と見える接し方だと、私は推測している。)ここで、息子がテーブルから落ちて病院へ連れて行くために、道の駅に陽子を一人置き去りにせざる得なくなる。陽子に一声かけてから車を出したなら、このあとの陽子のヒッチハイクはなくて済んだはずなのに、竹原はそれをしない。しかし、やはり、それほど息子のために慌てていたのだと、竹原ピストルという配役の醸す力が映画的な説得力を持つ。最後、青森で陽子を迎えるシーンも含め、従兄の行動と心情が理詰めで考えるとちぐはぐなのだが、理より情を重んじる雰囲気が実は映画の主題とも共鳴していて、これは配役の妙であった。

 さて、冒頭シーンの話ばかりが長くなってしまったが、映画のストーリーは、東京から青森までの陽子のヒッチハイクに合わせて進む。茨城の道の駅、高速の休憩所、いわき、南相馬。それぞれの場面で出会う人々もたいへん魅力的に描かれている。社長に資金を持ち逃げされ再就職を目指す女性。陽気なように見えるが自分の事情は話したがらないヒッチハイクの少女。胡散臭いジャーナリスト。そして、風吹ジュンが演じる農婦。その一人一人に語るべき要素はふんだんにあるが、私が注目したのは、映画が、陽子の旅に見る風景に社会の今を写している点だ。

 もちろん、この映画はけっして社会に対して物申す映画ではない。しかし、はじめに記したように、旅は人生を写す。ふだん、われわれは社会の出来事と自分とのかかわりを考えない。汚染水が海洋放出されても今日こなすべき仕事に差し障りがでるわけでもないし、甲子園で髪型の自由な校風の優勝校が出てきたことも一トピックくらいにしか受け止めてはいない。しかし、社会と切り離された人生は、われわれが思うよりはるかに少ない。映画では陽子の旅する背景に土嚢の郡が写し出される。福島で黒いビニールシートに包まれたまま10年寝かされ続けているそれらは、われわれとつながってあるのだ。

 私が注目しているのは、ヒッチハイクで陽子を乗せる人々が、非正規雇用側の人々だということだ。彼らのある人は、陽子に対して、優位な立場にあると思い込んでいる。「あなた、結婚は? したことないの。それは人ぞれぞれね。ハハ、でも、私は男と子どものいない人生は考えんられない。」「きみ、コミュ障なんだろ、だったら、何も言わなくて、気持ちよくなるだけで、目的が適うんだ。悪い話じゃないだろ。」しかし、彼らとて、いつ、組織の側から明日の仕事がないと告げられるかわからない人々なのだ。だから、ふだんは他人に自分を晒すのを警戒していて、ヒッチハイクで青森へ向かうという陰気な女、陽子の前では、自分の悪意を開放してしまうのだろう。そして、陽子を擦れ違っても車に乗せない大多数の人々は陽子にかかわるのを避ける。

 人はいつからそんなに人を避けるようになってしまったのだろうか? たぶん、震災以後ゆっくりと。「勝ち組」「負け組」という言葉をよく耳にするようになり出して、平均賃金の額が次年度より低下しているというニュースが続き出し、最低賃金が外国に追い抜かれたというニュースが出始めてくるまでの、この10年。人は、勝っているのか負けているのかということに、びくびくして生活するようになったのではないか。隣の人が見えなくなってしまった。

 だから、陽子にすぐ心を開く者に子どもが多いというのも印象的だ。映画の始め、東京で車に乗った陽子に死についてしゃべりはじめる、竹原の(?)娘。ラスト近くで、群衆に乗車を懇願する陽子に、一番に手をあげて父の車への乗車を申し出る中学生。かれらは素直だ。陽子を警戒しない。本心を晒す。そういう意味では、休憩所で一緒になり、別れ際にマフラーをくれた少女や、温かく陽子を迎えてくれた風吹ジュンも、無垢な心を陽子の前で見せたのかもしれない。しかし、何より、大人になってしまった私は、映画の子どもたちが自分の気持ちのままに動いているシーンにはっとさせられたのだ。

 そして、もう一つ、特筆すべきは、全編を通じての主人公陽子を演じた菊地凛子の表情である。その表情は単なる心情伝達を超越している。悲しむカットでは悲しい顔を、喜ぶカットでは喜ぶ顔などといったものではないのはもちろん、ある場面では、悲しみが鬼のようにも夜叉のようにも映り、他の場面では、歓びや安堵とともに悲哀が同時に見える表情がスクリーンに映し出される。たとえば、映画のラスト。陽子は、工藤家の実家の玄関前まで最期には自分の足で歩いて辿り着く。折しも青森は雪が舞っている。陽子のために出棺の時刻を待ってくれるように頼んであると、従兄が知らせる。その声を聞き、陽子の表情に写ったものは笑みのようにも悲しみをこらえた悶えのようにも感じられる。そして、雪のなかへどっと身を崩すのだ。

 陽子はどうして父と不和になり、いま果たして出棺の父の手を握り、和解できたのだろうか。それはわからない。映画は答えを語らない。しかし、人生とはもしかしたら、そういうものなのではないかと観客をはっとさせてくれる。上質な映画であったことは、まず間違いない。

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