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初登園。飛び立つきみへ。

「そりゃあ、泣くよな」初登園、泣き叫んで追いかけてくる娘を見ての感想である。

この数ヶ月、何度も何度も何度も、イメージトレーニングをしてきた。きっと泣いて追いかけてくる。いや、案外キョトンとしているかもしれない。いやいや、「マミー!」って呼ぶかも……

イメトレで娘の泣き顔を思い浮かべるたび、私は心のなかで号泣してきた。とても耐えられる自信がない。たぶん、大号泣しながら保育園を飛び出すことになるだろう。

そして予定より3ヶ月遅れた、7月1日の初登園。私の感想は「そりゃ泣くよな」だったし、全然涙も出なかった。なぜなら、その前夜にまぶたが腫れて目が開かないほどに号泣したからだ。

生まれる前からわかっていた「いつか娘は保育園に行く」ということ。

そのたった1日目なのに、どうしてこんなに心が揺れ動くんだろう。いつか忘れてしまいそうな心の機微を、ここに記しておきたい。


私のスマホにメモが残っている。

「明日、飛び立つきみへ」

冒頭はこうだ。「初登園の前夜。今、ベッドのなかで引くくらい号泣しながらこれを書いている」。

そう、本当に引くくらい、涙が止まらなくなってしまった(実際、夫はめちゃくちゃ引いていた)。なぜだろう、全然、本当に全然平気だったのだ。いよいよ明日か、さみしいな、くらいには思っていたけれど、ちょっと楽しみな気持ちすらあった。

持ち物の準備や、裸で走り回る風呂上がりの娘を追いかけているうちに、あっという間に夜。そして、夜ベッドに入って、下のツイートをした。

その瞬間に、なぜだか滝のような涙が出てきてしまった。

「号泣」の言葉がぴったりくる泣き方だったと思う。ぽろり、ぽろぽろ、しくしく、わーんわんわん……という感じ。夫も「え、どした?」みたいな感じだったし、私自身「あれ、まだ生理も来ないはずなのにおかしいな…」と思っていた。

なぜか。

生理によるホルモンバランスでないとしたら、何が、私をあそこまで泣かせたのか。翌日もずっと考えていた。

スマホに残る、支離滅裂なメモにはこう書いてある。

「ずっと一緒だった娘との毎日が終わってしまう。なんて幸せな2年間だったんだろう。大好きなあの子が、ついに私だけのものじゃなくなる」

もともと娘は「私だけのもの」ではないし、保育園に行くようになったって娘との毎日は続いていく。それはわかっているのだけれど、夜中の涙は止まらない。

泣きながら、私は自分自身を追い詰めるかのように、この2年間の写真を遡っていた(マゾすぎる)。生まれたときから2年間、大変じゃなかったといえば嘘になるけれど、その何倍も幸せだったなあ。なんて振り返りながら、新たな種類の涙が出てくる。

私はこの2年間、ちゃんと1秒1秒を大切にできていたんだろうか。「マミーマミー」と呼ぶ娘に「あーい」と生返事しながらスマホを見ていなかったか。外に行こうと誘う娘に「仕事だからばあばと行っといで」と断らなかったか。

もちろん常に100%で向き合い続けるなんて、誰にもできない。特に子育てと仕事と家事と自分の生活、全部100%でやったら死ぬ。だから自分を責めることはしないけど、なんだかハッとしたのだ。

あの子は大きくなる。いつか「マミーこっち見て」と言わなくなるし、いつか「一緒に来て」とも言わなくなる。今を大切にしよう、なんて当たり前のことを改めて気付かされた。

そんなことを延々と考えているうちに、寝ていた。泣きながら寝てしまったのなんて、いつぶりだろう。そして翌朝、鏡を見たら、腫れた目をした妖怪のような顔になっていた。


普段はバス登園の娘。初日だけは、私と夫のふたりで園まで娘を連れていくことにした。「最初からバスに乗せちゃっていいですよ」と言われていたのに、なんだか娘がかわいそうな気がして、どちらかと言えば私たち親の勝手な自己満足だったようには思う。

最初は、珍しくみんなで出かけるのが楽しそうだった娘も、徐々に「なんだ…?どこへ行くんだ…?」と緊張顔になっていく。

娘はずっと夫にべったりで、私は主に荷物持ちを任された。「親の緊張もうつるんだからね!」と母から連絡が来たので、保冷剤で腫れた目を押さえながらも手をつないでみたりする。振り払われた。イヤイヤ期というやつだろう。

小さな手にぎゅうっと力が入っていた。娘なりに、いろんなことを考えていたと思う。

保育園に着いて、先生たちに荷物を渡すと、娘の顔がいよいよ「まさか…?!やばい!こいつら置いてくつもりだ!」みたいな感じになり、号泣しながら夫にがっしりしがみついてしまった。

私のイメトレでは「マミー!いかないで!」という感じだったのだが、完全に「ダディーーーー!」という感じだったので、私は荷物を置いて「じゃあ、お願いします!」と言うと、夫とそそくさと保育園を後にした。涙は出なかった。これでよかったのだ。


帰り道のコンビニで、夫と「ごほうび」を買った。メロンパンとヨーグルトドリンク。そして、ここぞとばかりに普段行かれなかった区役所や免許証の住所変更など「大人の用事」を済ませて帰った。なんて身軽なんだろう。

家に帰ると、なんだか「娘がここにいたのは、長い長い夢だったんじゃないか」と思うような、不思議な感覚があった。娘の部屋にいくと、おもちゃが散乱し、脱ぎっぱなしのパジャマが、たしかにあの子はここにいたと証明している。

パジャマを拾って、思わずにおいを嗅ぐ。さみしい気持ちが落ち着くかと思いきや、逆に胸がきゅっとなってしまった。

そこからお迎えの時間になるまで、ぶっとおしで仕事をした。こんなに集中したのは、めちゃくちゃ久しぶりだった。

これまで、いくら家族が娘を見てくれていても、結局脳内の半分くらいは娘のことを考え続けていたのだと気づく。うまく切り替えることができる人もいるのかもしれないが、私はそうだった。

だから、こんなにぶっとおしで仕事をして、自分が思った順番に、思ったとおりに事が進むというのが、とても新鮮だった。徐々に、自分の脳と身体が「自分のもの」に戻ってくるような感じ。うまく表現できないが、じわりじわりと「母ではない私」が帰ってきていた。


帰りはバスで帰宅する娘を、道路で待つ。帰ってきたらたくさんハグしてあげよう。やっと会えた!と抱きついてくるかな……

全然そんなことなかった。娘、めちゃくちゃ怒っていた。

こちらは溜まっていた仕事が進み、ずいぶんと晴れやかな顔で出迎えていたに違いない。そんな私を睨みつけ、娘はひとりでソファに腕を組んで腰掛けた。ハグどころではない。

その姿は、もう「私の赤ちゃん」ではなくて、ひとりの小さな女の子だ。

「ごめんごめん、でもね、今日はすごい仕事できてさ」

なんて、待ち合わせに遅れた彼氏のような言い訳を並べながら、隣に座ると少しだけ許してくれそうだった。

彼女は保育園へ、私は仕事へ。一緒に外へ一歩を踏み出したばかり。私たちはこれからだ。


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