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残念な知らせに、娘は「わーい」と笑った。

子どもの喜ぶ顔が見たい。特に休日はそれだけを原動力に生きていると言っていい。どんなに大変なことだって、嬉しそうな笑顔を見せてくれたら頑張れる、というのはあながち比喩ではないと思う。

ただ、いつもフルスロットルに喜ばせられるわけでもないのが正直なところで。

むしろ、「もっとああしてあげればよかった」「これもやってあげたらよかった」と後悔してばかり。コロナ禍やもともとの出不精が重なって、あまりたくさんの経験をさせてあげられていないことに、常に罪悪感を感じていた。子どもとこんなことしたよ、ここに連れて行ったよ、という投稿を見るたびに、ああ我が家はまた家の近所で適当に過ごしてしまったなあと思ってしまう。

さて、この日は我が家では珍しく家族で外出を予定していた。横須賀の米軍基地内でおこなわれたフレンドシップデーが3年ぶりの開催されるよと友人に誘われて、夫と私の母も誘って久々のお出かけだった。

ところが、家を出て少し歩いたところで、一緒に行く予定の友人から連絡が入った。

「人が……行列が……やばい!!!!」

Twitterで検索してみると、3年ぶりの開催に気合いを入れているのは出店側だけではなかったようで、最寄駅から3時間(!!!)もの行列ができているというではないか!

これは……無理では……。ただでさえ人混みが嫌いな夫を説得したというのに、4歳の娘と1歳の息子と一緒に3時間の行列に並ぶなんて、普通に考えて無理ゲーすぎる。

せっかく、子どもたちをどこかへ連れて行ってあげられると思ったのに……。どうにか行かれないかな。

なんとか行く方向で考えようとするも、不機嫌になる夫、気を使う母、グズる娘、泣き叫ぶ息子、疲れた自分。全員の顔がはっきりと浮かんだ。無理だ。これでは、楽しいお出かけが一転、ただのつらい思い出になってしまう。

私は普段、優柔不断で有名だが、この時は早い決断を迫られていた。ええい、止めるか!

「行くのやめよう……残念だけど、この行列、子連れでは無理だ」

私の言葉に、大人たちは残念なような、どこかホッとしたような表情を浮かべていた。そうだよね、3時間も並びたくない。

さて、子どもたちにどう言おうか。1歳児はまあいい。私は4歳の娘に向かって言った。

「今日はみんなで電車に乗って出かけるってことだったんだけど、たくさんの人が来すぎて行かれなくなったんだ」

わかっているのかわかってないのか(いまだに4歳がどこまで理解できてるのか不明)、じいっと私を見つめる娘。その表情からは特に何も読み取れない。ふと顔をあげると、そこには馴染みのパン屋があった。そうだ……

「その代わり、今日はこれからパンを買って近くの川沿いでピクニックしよう!」

子どもたちに服を着せ、靴を履かせ、自分のメイクまでした今日、一度家を出たのだからただでは帰らん。そんな気持ちで、ショボいプランを提案した。正直、普段からしょっちゅう行ってるパン屋だし、特別感も何もないのだけど。

その瞬間、娘がぴょーんと飛び跳ねた。

「わーい!ピクニック!ピクニック!」

なにこれ、めっちゃ嬉しそう。なんなら、フレンドシップデーの説明したときより、嬉しそうじゃん。

結局、川沿いでパンをたらふく食べて家に帰っただけ。グリルで焼かれるバーベキューもなければ花火もない。いつもの「家の近所で適当に過ごしてしまった休日」と何も変わらない。

その代わり、何かを待ったり、気を使ったりすることもない。一緒にフレンドシップデーに行く予定だった友人も我が家に来てくれて、なんか普通にめちゃくちゃ楽しい日を過ごした。

子どもたちは、1日中、ずっと笑顔だった。

「どこで何をするか」に囚われていたのは、もしかしたら私のほうだったのかもしれないなあ、とふと思う。たとえ夢の国に行ったって、そこで不機嫌になったり喧嘩になったら本末転倒なわけで。それなら、いつもと同じ公園で、住み慣れた我が家で、みんなで笑顔で踊っていたほうが何倍も幸せだ。

私たちのほうこそ、笑顔でいられるか。それが彼らの幸せの記憶を作るのだと、また娘にひとつ教えられてしまった。

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