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女の子と男の子、どっちも育てる母としてこの社会に思うこと。

女の子のお母さんになって見える世界

お腹にいる子の性別が「女の子」だとわかったとき、私は喜びもありながら、実は気の重さも感じていた。

なぜか昔から女子同士の争いに巻き込まれることも多かったし、もちろん生理や妊娠の大変さ、それに伴うキャリア形成の難しさなども知っている。自分がある程度「女の人生」を歩んできたからこそ、大切な娘もあの世界に突っ込んでいかなきゃいけないのかい……と、憂鬱だった。

今でも、一番つらくなるのは、性被害の話だ。

高校時代、毎朝のように痴漢に遭って教室で泣いている同級生を見ていた。性被害を訴えてめちゃくちゃに叩かれる女性たちを見てきた。最近は、仕事でもフェミニズムについての取材や執筆が増えてきて、いろいろな人の話を聞くたびにこの社会を嘆きたくなった。

娘が生まれてからは特に、ニュースやネット上で性被害の概要を聞くだけで泣き出したくなる。それが自分の娘に起きたらと思うだけで、一生高い塔の上に閉じ込めておけないだろうか、と妄想する。

娘が生まれる前、「女の子だからダメ」なんて絶対に!絶対に!言わないで育てようと思ってきたのに、実際は社会がそうさせてくれない。スカートの下にはスパッツを履きなさいだとか、ノースリーブ1枚はダメだとか、たぶんそのうち「夜遅くなったらだめ」とか、そういうことを言わなきゃいけない。本当は、どこまでも好きな格好で、走り回らせてあげたい。

昔、母が「気をつけなさい」「そんなところに行ったら危ない」「あの人とはもう会わないほうがいい」と言ってきたときは、正直心配しすぎだよと思っていたけれど、今なら彼女の気持ちが痛いほどわかる。

この世は女の子にとって危ないことばかりだ。気を抜くな、身体を隠せ、笑顔で耐えろ。そんなこと、母親として言いたくないのになあ。

こんな世界に、娘を送り出せない、と心底思う。

男の子のお母さんになって見える世界

お腹にエコーを当てながら先生が「おちんちん、ついてますね」と言ったとき、私は安堵もありながら、やっぱり気が重たくなった。

私には男兄弟もいないし、父とは中2以降一緒に住んでいない。ずっと吹奏楽部だったから、友達の98%くらいは女子だった。「男の子」の人生を、正直なんにも知らない。それなのに、どうやって育てればいいのだろうか。

性差別やフェミニズムを勉強するなかで、「男の生きづらさ」があることもわかった。女子とは対照的な「男らしくあれ」という呪い。私は体験したことがないけれど、「性別」という枠にはめられる点において、しんどさはきっと似ていると思う。

そういえば、学生時代の男子たちの「ノリ」では、体が大きいやつ、声がでかいやつ、目立つやつが偉そうにしていて、そうじゃない男子は「ダメなやつ」「モテない」のレッテルを貼られるような感じがあった。

社会に出てからは「稼がないと結婚できないぞ」「酒飲めないと接待できないぞ」みたいな、今は少なくなってきた(と信じたい)マッスルな発言も耳にした。

そういう発言をする人だって、遡れば息子と同じ小さい男の子だったわけで、やっぱり「男の生きづらさ」を経てそういう価値観に染まってしまったのだと思う。正直なところ、私だってその価値観に染まっていた時期は、誰かを傷つけたことがあるかもしれない。

はあ。もしかして、あんなところに私のかわいい息子を放り込んでいかなきゃいけないのかい……。

もともと「男の子なんだから」なんて言うつもりは毛頭ない。むしろ絶対に!絶対に!言わないと決めている言葉だ。でも、私ひとりが「とらわれなくていい」と言ってあげるだけでは、きっと守ってあげられないだろう。

まだまだクソみたいな価値観が根付いているこの世界には、息子も送り出せない。

どっちの性別でも、やることは同じ

今読んでいる『現実を解きほぐすための哲学(著:小手川正二郎)』のなかに、フェミニストのベル・フックスの言葉を引用した部分が出てくる。

問題は性差別だということである。そしてそのことが思い出させるのは、わたしたちはみな、女であれ男であれ、生まれてからずっと性差別的な考えや行動を受け入れるよう社会化されている、ということだ。

『現実を解きほぐすための哲学 P48 より』(著:小手川正二郎)

「女であれ男であれ」の部分が、個人的には刺さった。そうか「女だから心配」「男だから生きづらい」んじゃない。性差別がある限り、娘も息子も、どっちも生きづらい社会のままなのだ。

日々変わりつつある社会のなかで、私は心配しすぎ母ちゃんなのかもしれない。いつか、この文章を読んだ子どもたちに「何を心配していたの?感覚が古すぎるんですけど〜」って言われたい。

それまで、私があの子たちのためにできることはなんだろう。まず、彼らをこの世に連れてきた先人として、この社会ではどんな性別でもクソみたいなことが起きるってことは、伝えなきゃいけないだろう。

その上で、母はそれに負けたくないんだって言いたいと思っている。あなたたちのために、自分自身のために、まだまだ闘うよって、目を見て伝えられる私でいたい。

大きな石は、どかしておくからね

突然だが、つい先日、長年放置されていた場所を耕して畑にするプロジェクトに参加した。土がガッチガチに固まっていて掘り起こすのが大変で、大きな石がゴロゴロ混ざっていて、それを取り除くだけで一苦労だった。

こんなところに植物が育つんかいな、と思うほどの土壌。野菜や果物を育てるためには、まず大きな石をどかして、何度も掘り起こして、土を柔らかくしていくしかないらしい。私が子どもたちのためにできるのは、これなのかも、と思った。

性差別をやめろ!と声をあげること。性犯罪に真っ向からNOと訴えていくこと。差別から人々を守る法律を進めてくれる政治家を選ぶこと。「女らしさ」「男らしさ」の滲む発言を止めること、そのままにしないこと。

そうやって、まずは“大きな石”をどかす。土壌を耕していくための準備だ。土がふかふかになれば、健やかな種は勝手に根付く。そしてきっと、枯れることなく力強く育っていく。

そうしたら、お腹の子が女の子でも男の子でも、気が重くなることなんてない。どんな性別だろうと、どんな子だろうと、どんとこい!幸せに生きられる道は用意してあるぜ!と、両手を広げて待っていてあげられる未来を目指していきたいと思う。

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