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やっぱり書こう、と思った日

ぜんぜん書けそうな気がしなかった。
留学中、このnoteをはじめ文章をよく書いていた。あるキーワードを決めると、そこからするすると言葉がつながっていった。それが、まるで本をパタンと閉じたかのように出てこなくなっていたのだ。帰ってきてからこの一年はあまりに色々なことがあって、いっこいっこ丁寧に受け止める余裕なんてなかったし、書くに値することがあるようにも思えなかった。枯れてしまった感覚。

先月、大学の先輩が監督をした映画作品が公開され、試写会へ行った。インド・ベンガル地方の大詩人タゴールと、現代を生きる人々とのドキュメンタリーだ。(監督の記事はコチラ↓↓ 映画『タゴール・ソングス』第3回目試写レポート🌸)
https://note.com/sarasasaki/n/nda6a89a9196f

そして試写会の後、同じように見に来ていた他の先輩たちとこんな話をした。

「海外から日本に戻ってきて、日常生活から小さなことを感じ取るセンサーが鈍ってしまった。街には機械の音ばかりがあふれていて、たぶん人の声が消えても音量は変わらないだろう。生活がシステマチックに出来上がっていて、想定外の出来事が起きることがない。」

話していたうちの一人は、ちょうど2年ぶりにイタリアから帰国してきたばかりだった。一人暮らしでもないので自分だけの時間が極端に減り、毎日のルーティーンの外側を強要される機会も少ない。そして日記を毎日書いていても、自分が何を考え感じているのかがだんだん客観視できなくなっていく。そんなことを話した。

だが私はつい先ほど突如、「書かなくちゃ」と思った。コロナの影響でオンライン入社式を終え、SNSを何気なく見ていた時、中高時代の友人の投稿に「この春から、言葉を書く仕事につけることになりました」とあったのだ。彼女は詩や歌が好きで、よく自分でも詩を書いているようだが、昔から私は彼女の活動を素直に見ることができない。好きなことだけでなく、彼女の頑固さも貪欲さも根本的に私とよく似ていて、同族嫌悪なのだと思う。

実は自分もほんとうは、言葉や本に携わったり、何かを作り出したりする仕事がしたいのだ。しかし、私がこれから始めるのはモノを流通させる仕事だ。自分が憧れている職種に彼女が就くということを、すごくうらやましく思った。私だって、「言葉」について大学で学んでいたのに!

「SNSなんて見なきゃよかった」とも思ったが、それならば私も、水面下で動いていこうと考えたのだ。格好つけず、下手くそでもコンスタントに。やっていればどこかにつながるだろう。

この春からの仕事で得られるものは全部ゲットして、次に進んでやるぜ。今はそんな気持ちだ。

書きたいキーワードは何個も溜まっているので、少しずつ文章化できたらなぁと思っています。
(写真はトルコの濃ゆい美味いチャイ。のんびりブランチで一日が終わる国)