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マイノリティになるということ

引きこもり気質と冒険気質が、心電図のように上下する人生を送ってます。そんな私が、縁あって結婚してアメリカに住むようになりました。そこで知ったのは、自分がマイノリティ(少数派)になるという経験。

戦後の高度経済成長期の真っただ中を生きた両親の元に育ったので、どこかアジアの選民族というような感覚をもっていたような。。なおかつ、日本は単一民族国家なので、容姿だけで人から勝手にカテゴライズされるという経験は、ほぼ皆無でした。しかし、そんな日本人もアメリカに来れば、アジア人とひとくくりにされ、これは差別?!というような場面にも遭遇するわけです。

それでも日本人だと伝えれば、相手が一気に友好的になる。そんな時、またまた日本人ということに、妙なプライドが生まれてしまうわけです。私は、なんとナイーブだったことでしょう。

個人の見解ですが、多国籍国家で相手の出身国を聞くのは、ある程度親しくなってからのことで、初対面でいきなりこの質問をするのは、相手の英語がよほどおぼつかなくて、会話の糸口を探しているときに使う手段であったりします。なのでこういう時は、会話相手の出身国について知ってる限りのことをひねり出してくるわけです。

結果、とても友好的な感じになる。要するに、出身国の優位さなんかではなく、その人の相手を思いやる優しさです。そもそも、相手に興味をもって歩み寄ってくれている人達との会話なので、とても暖かいのです。

一方、街中で遭遇するような差別。レストランでトイレに近い席に通されがち、とか、目を横に引っ張ったジェスチャーをされるとか。それは、相手が私を容姿で「アジア人」というカテゴリーでひとくくりにして、そのカテゴリー全体に対して差別をしているわけです。今まで、そんな体験をしたことがなかったので、初めて差別に遭遇した時は頭に血が上りました。

いちべつで、相手が自分を下においてもよいとジャッジを受ける体験は、とても悲しいものです。母になってからは、自分はまだしも子供にまでそんな態度をされると、いまだに頭に血が上ります。いくらそれは相手の問題だとわかっていてもです。

しかし、そんな経験は自分を内省するきっかけとなりました。私も、相手を容姿だけでジャッジしてこなかったろうか。自分の隠れた差別意識と対峙する。モグラたたきのように、やってもやっても終わりのない内省。これは、もはや遺伝子レベルで刷り込まれている差別意識なのか?!と、ふっとわいてくるジャッジする感情。難しい。。。

私にとってマイノリティになるという経験は、自分が今まで疑問なく抱いていた常識を根底から覆すような、そんな破壊力を持っているものでした。まさに、ウェイクアップコールです。

流動的な社会に生きているのに、私たちの感覚は子供のころに植え付けられた常識から、なかなか抜け出せずにいませんか?

なので、何か新しい事象に遭遇した時は、ふっとわいてくる感情に、まずは疑問を持つようになりました。できるだけ心を砕いて、相手の立場からの視点も持つように心がけています。なぜなら、いつ自分が差別の対象に立つことがあるかもわからないからです。

子供には、優しい社会で生きていてほしいと願うのは、親の常ではないでしょうか。その一歩は、自分の当たり前を疑うこと。そして、いろんな立場の人に興味を持つこと。から始まるのではと思っています。 

最後まで読んでいただきして、ありがとうございました。



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