人生の見直し(駄文)

QOLなんて言葉が出てからそれなりに経った。
丁寧な暮らしだとか、自分を見つめ直すだとか、スローライフだとか、言い方はたくさんあれど、つまりは人生の見直ししようぜって話なのだと思う。

34年生きてきて、何を学んだかというと、それはもう語るのに34年はかかることを学んだ。

最初の10年くらいは伸び伸び生きてた。
そこから20年くらいは塵が積もってった。
そしてここ数年はその塵を払っている。

人生の見直しが何故必要かというとこの社会がおかしいからである。
トチ狂った所に身を置いていれば自分だってトチ狂ってくるのだ。だから私はトチ狂っているなと思う。
社会はいまだにトチ狂っているけれど、もうそんなんにはついていけないと前線から一抜けた人達が沢山いて、そういう人達が人生の見直しをしている。

でも、トチ狂った世の中のトチ狂った常識の中で何年も何年も過ごしてしまっているからその心身の奥底まで染み渡ったトチ狂ったお作法からはなかなか脱却できない。
世の中の大変面倒臭いところはここだと思う。

今の生活は人間として良くない!変えよう!となったとしても僕らは仙人様のように霞を食べて生きるわけにはいかず、例えば焼肉とか、例えばお寿司とか、例えばエクレアとか、そういうものを食べたいわけだ。
そのために支払う代償は身を粉にして働いて得たお金であったり、自分の心身を切り売りして過ごす時間だったりする。

心で想う素晴らしい生活と、今この時の現実&欲望は反することがほとんどだ。
現実と理想のギャップが大きければ大きい程、人の心は傷付くし脳は混乱する。
そのカオスの結果の産物が拝金主義であったり、ヘイト感情、筋の通らない宗教、ルッキズム、優生思想…etc.
…まさに!…魑魅魍魎!!

私が理想とする人生の過ごし方とか豊かだなぁ〜と思う時間というのは今まで10人いれば7人には共感してもらえると思っていたけれど、色々な人と関わった結果どうやら10人中3人にしか共感されないようだ。

何故だ。
川の水がウネウネ流れてくのを眺めたり、海で足をバシャバシャしたり、山道をゼェゼェ言いながら登ったり、たくさんのチューリップを写真におさめたり、でっかい花火に歓声をあげたり、さっき見たのはハクビシンか?アナグマか?とか考えたり、SNSで見つけた作家さんの本を買いに出かけたり、何年も会ってない友達にふとLINEしたり、姪っ子と一緒にダンゴムシを観察したり、

どうしてそういうのが豊かな生活だと伝わらないのだ!

だが、こういう怒りを感じることがトチ狂った社会の常識を内包してるということなのだよな。

人のことを想うのは大切だけれど、自分の両手で抱えられない人達のことまでは考えなくていい。
その人もその人で立派に生きているのだから、私は私のために私の感性を大切にせにゃならん。
他の人の感覚を否定して修正して自分の思い通りにしようと思ってるから怒るのだ。
その人にはその人のペースがあるから、今は伝わらなくても20年後とか、30年後とか、来世とか、さらにその次とかで伝わるかもしれない。

要は、伝わらなくてもそれはそれでいいのだ。
大切だと思える、この両手で抱えられる人達に伝わっていれば私は満足できるはずだ。

考えつく素敵な人生をやってくにはこの世の中はどうしても厳しい。
冷たいのとは少し違くて、こちら側の精神的成長次第ではいくらでも拓けるのだけど、誰にもその成長の仕方は教えてもらえない。だから厳しい。

自分のペースを取り戻して、自分の感性で生きていくにはタフにならねば。厳しいこの世界でぐっと踏ん張る根性を身に付けて、新天地へ挑む度胸を養うしかない。

誰かの価値観で生きることから逃げて、タフに自分の人生をやっていかねば。

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