スートラの呪い―ヨガ哲学のダークパターン 第5章:アシュタンガ・ヨガの歪みと光
アシュタンガ・ヨガの系譜:伝統と革新の交差点
アシュタンガ・ヨガは、現代ヨガの中でも特に影響力のある流派の一つとして知られている。その起源は、20世紀初頭のインドにまで遡る。クリシュナマチャリアという卓越したヨガ指導者から、その弟子であるパタビ・ジョイスへと受け継がれ、発展してきたこの実践法は、古典的なヨガの智慧と現代的なアプローチの融合を体現している。
クリシュナマチャリアは、ヨーガスートラの教えを深く理解し、それを現代的な文脈で解釈し直した先駆者の一人であった。彼は、ヨーガスートラが説く八支則(アシュタンガ)を、単なる理論的な枠組みではなく、実践的な修行の道筋として再構築した。この過程で、彼はヨーガスートラの「アビヤーサ」(継続的な実践)と「ヴァイラーギヤ」(離欲)の概念を、日々の実践の中心に据えた。
クリシュナマチャリアの教えを受け継いだパタビ・ジョイスは、さらにこの実践を体系化し、現在我々が知るアシュタンガ・ヨガのスタイルを確立した。ジョイスは、ヨーガスートラの「ヴィンヤーサ」(特定の順序や配置)の概念を拡張し、動きと呼吸を同期させた流動的な実践法を生み出した。この方法は、ヨーガスートラが説く「スティラ・スカ」(安定性と快適さ)の理想を、動的な実践の中で追求するものであった。
Matthew Remski の著書 "Practice and All Is Coming: Abuse, Cult Dynamics, and Healing in Yoga and Beyond"(邦題:『実践すれば全てがやってくる:ヨガとその他における虐待、カルトのダイナミクス、そして癒し』)では、アシュタンガ・ヨガの発展過程とその問題点が詳細に分析されている。Remski は、クリシュナマチャリアからパタビ・ジョイスへの伝承過程において、元々の教えがどのように変容し、時には歪められたかを指摘している。例えば、クリシュナマチャリアが強調していた個々の生徒に合わせた柔軟なアプローチが、ジョイスの下でより標準化された、時には厳格すぎる実践へと変化していった過程が描かれている。
この変容過程は、ヨーガスートラが警告する「ヴィパルヤヤ」(誤った認識)の一形態とも解釈できる。元々の教えの本質が、伝承の過程で誤解され、あるいは意図的に変更されることで、実践の本来の目的から逸脱してしまう危険性がある。しかし同時に、この過程はヨガの「パリナーマ」(変化、変容)の原理の現れでもある。教えは固定的なものではなく、時代や文化の変化に応じて進化し、適応していくのである。
アシュタンガ・ヨガの発展は、伝統と革新の絶え間ない対話の産物であり、そこには現代のヨガ実践が直面する多くの課題が凝縮されている。古典的な教えの本質を保持しつつ、現代社会のニーズに応える実践を創造すること。個々の実践者の特性を尊重しつつ、ある程度の標準化を図ること。身体的な挑戦と精神的な深化のバランスを取ること。これらの課題は、アシュタンガ・ヨガに限らず、現代ヨガ全体が取り組むべき重要なテーマである。
アシュタンガ・ヨガを選ぶ心理:挑戦と変容への渇望
アシュタンガ・ヨガは、その挑戦的な性質と体系的なアプローチゆえに、特定のタイプの実践者を引きつける傾向がある。この流派を選ぶ生徒たちには、しばしば共通する潜在的な欲求や心理的特徴が見られる。これらの特徴は、ヨーガスートラが説く「クレーシャ」(煩悩)の概念と密接に関連している。
まず、多くのアシュタンガ・ヨガの実践者は、強い自己変容への欲求を持っている。これは、ヨーガスートラの「タパス」(熱心な実践、苦行)の概念と結びつく。アシュタンガ・ヨガの厳格な実践法は、自己を鍛錬し、変容させるための強力な手段として認識される。しかし、この欲求が過度に強くなると、「ラージャ」(執着)や「アビニヴェーシャ」(生への執着、恐れ)といった煩悩を強化してしまう危険性もある。
次に、多くの実践者が持つ特徴として、達成欲求の高さが挙げられる。アシュタンガ・ヨガの段階的な実践法は、明確な目標と進歩の指標を提供する。これは、ヨーガスートラの「クラマ」(段階、順序)の概念を体現するものだが、同時に「アスミター」(自我意識)を強化する可能性もある。より難しいポーズや高度なシリーズへの執着は、ヨガの本質的な目的である自己超越からかえって遠ざかってしまう 逆説を生み出す。
さらに、アシュタンガ・ヨガの実践者には、強い共同体意識を求める傾向が見られる。定期的な練習と共有される挑戦は、強い絆で結ばれたコミュニティを形成する。これは、ヨーガスートラの「サンガ」(集団)の概念の現代的な表れとも言えるが、同時に「ドヴェーシャ」(嫌悪)を生み出す可能性もある。つまり、自分たちの実践法を絶対視し、他の方法を否定的に見る傾向である。
Norman Blair の著書 "Brightening Our Inner Skies: Yin and Yoga"(邦題:『内なる空を明るくする:陰ヨガとヨガ』)では、アシュタンガ・ヨガの実践から陰ヨガへと移行した著者自身の経験が描かれている。Blair は、アシュタンガ・ヨガの強度の高い実践に長年取り組んだ後、身体的・精神的な限界に直面し、より穏やかで内省的な実践法を求めるようになった過程を詳細に記している。この経験は、ヨーガスートラが説く「プラティパクシャ・バーヴァナー」(反対のものを修習すること)の原則を体現するものである。つまり、一つの極端な実践から、それとは対照的な実践へと移行することで、より深い理解と均衡を得ることができるのである。
Blair の経験は、アシュタンガ・ヨガの実践者が直面する典型的な課題を浮き彫りにしている。高強度の実践への執着が、かえって身体的・精神的な不均衡を生み出してしまうこと。外的な形式や達成に囚われるあまり、内的な洞察や成長の機会を逃してしまうこと。そして、特定の実践法に同一化するあまり、他の方法や視点を受け入れる柔軟性を失ってしまうこと。これらの課題は、ヨーガスートラが警告する「アヴィディヤー」(無知)の現代的な表れとも言える。
しかし、アシュタンガ・ヨガを選ぶ実践者たちの心理的特徴は、単にネガティブな側面だけではない。彼らの強い変容への欲求や達成志向は、深い自己探求と成長の原動力ともなりうる。共同体意識への渇望は、相互支援と学び合いの環境を創出する。重要なのは、これらの特徴を認識し、ヨーガスートラの智慧に照らして適切にバランスを取ることである。
アシュタンガ・ヨガの実践:身体と心の相互作用
アシュタンガ・ヨガの実践は、身体と心の密接な相互作用を基盤としている。この相互作用は、ヨーガスートラが説く「プラクリティ」(物質的自然)と「プルシャ」(純粋意識)の関係性を体現するものである。アシュタンガ・ヨガの流動的で強度の高い実践は、身体(プラクリティの表れ)を通じて心(プルシャの反映)に働きかけ、両者の統合を目指すものと解釈できる。
実践の中核をなす「ヴィンヤーサ」システムは、呼吸と動きの同期を重視する。これは、ヨーガスートラの「プラーナーヤーマ」(呼吸の制御)の概念を動的な実践の中に組み込んだものと言える。呼吸に集中することで、実践者は「プラティヤーハーラ」(感覚の制御)の状態に導かれ、外的な刺激から内的な気づきへと注意を向けることができる。
アシュタンガ・ヨガの一連のポーズは、「ダーラナー」(集中)と「ディヤーナ」(瞑想)の実践の場としても機能する。特に難易度の高いポーズに挑戦する際、実践者は高度な集中力を要求される。この過程で、ヨーガスートラが説く「エーカーグラター」(一点集中)の状態に近づくことができる。
しかし、アシュタンガ・ヨガの実践には潜在的な危険性も存在する。高強度の身体的実践への過度の執着は、ヨーガスートラが警告する「ラージャ」(執着)や「アビニヴェーシャ」(生への執着、恐れ)を強化してしまう可能性がある。また、難しいポーズの達成に囚われるあまり、「アスミター」(自我意識)が肥大化してしまう危険性もある。
David Garrigues の著書 "Vayu's Gate: Yoga and the Ten Vital Winds"(邦題:『ヴァーユの門:ヨガと10の重要な風』)では、アシュタンガ・ヨガの実践における微細なエネルギーの働きについて詳細に論じられている。Garrigues は、アシュタンガ・ヨガの物理的な実践が、いかにして「プラーナ」(生命エネルギー)の流れに影響を与え、心理的・精神的な変容をもたらすかを説明している。彼の分析によれば、適切に実践されたアシュタンガ・ヨガは、身体のエネルギーチャンネルを浄化し、より高次の意識状態への道を開くことができるという。
この視点は、アシュタンガ・ヨガの実践を単なる身体運動としてではなく、ヨーガスートラが説く「サンヨーガ」(結合)を実現するための手段として捉え直すものである。身体的な実践は、より深い精神的・霊的な目的のための道具となる。しかし、この理解が欠如していると、実践は表面的な身体の鍛錬に終始してしまう危険性がある。
アシュタンガ・ヨガの実践者には、常に自らの実践の意図と目的を問い直す姿勢が求められる。ヨーガスートラの「スヴァーディヤーヤ」(自己学習)の精神に基づき、単に形式的な実践を繰り返すのではなく、実践を通じて自己と宇宙の本質を探求する態度が重要となる。同時に、ヨーガスートラが説く「サンターシャ」(満足)の概念を念頭に置き、自身の限界を受け入れ、過度の野心や競争心を手放す姿勢も必要となる。
アシュタンガ・ヨガの教授法:権威と依存の構造
アシュタンガ・ヨガの教授法は、伝統的なグル・シシャ(師弟)関係と現代的な指導法の融合を体現している。この教授法の中心にあるのは、「アジャストメント」と呼ばれる直接的な身体的指導である。教師が生徒の体に直接触れ、ポーズの修正や深化を促すこの方法は、ヨーガスートラが説く「プラティヤクシャ」(直接知覚)の原則を体現するものと解釈できる。
しかし、この密接な身体的接触を伴う指導法は、権威と依存の複雑な力学を生み出す。教師は生徒の身体に対して大きな影響力を持ち、時にその権威が濫用される危険性もある。これは、ヨーガスートラが警告する「アスミター」(自我意識)の肥大化や「アビニヴェーシャ」(生への執着、恐れ)の強化につながる可能性がある。
また、アシュタンガ・ヨガの伝統的な教授法では、生徒は教師の指示に従順であることが求められる。これは、ヨーガスートラの「イーシュワラ・プラニダーナ」(自在神への帰依)の概念を、教師への帰依として解釈したものとも言える。しかし、この従順さが過度に強調されると、生徒の批判的思考や自主性が損なわれる危険性がある。
Karen Rain と Jubilee Cooke の共著 "Ashtanga Yoga in the #MeToo Era"(邦題:『#MeToo時代のアシュタンガ・ヨガ』)では、アシュタンガ・ヨガのコミュニティにおける権力の濫用と性的虐待の問題が詳細に論じられている。著者たちは、アシュタンガ・ヨガの伝統的な教授法が、時として生徒の身体的・精神的境界を侵害し、虐待的な関係性を生み出す構造的問題を持っていることを指摘している。
このような問題は、ヨーガスートラが説く「アヒンサー」(非暴力)と「サティヤ」(真実性)の原則に真っ向から反するものである。教師と生徒の関係性において、これらの倫理的原則をいかに実現するかは、現代のアシュタンガ・ヨガが直面する最も重要な課題の一つと言えるだろう。
アシュタンガ・ヨガの教授法を再考する上で、ヨーガスートラの「ヴィヴェーカ・キヤーティ」(真の識別力)の概念が重要となる。教師は自らの権威と影響力を慎重に扱い、常に生徒の自主性と個性を尊重する姿勢を持つ必要がある。同時に、生徒も盲目的な従順さではなく、批判的思考と自己責任の態度を育むことが求められる。
アシュタンガ・ヨガの進化:伝統と革新の対話
アシュタンガ・ヨガは、その確立以来、常に伝統の保持と革新の必要性の間で揺れ動いてきた。この緊張関係は、ヨーガスートラが説く「スティティ」(安定)と「パリナーマ」(変化)の概念を体現するものと言える。
伝統を重視する立場からは、パタビ・ジョイスによって確立された実践法を忠実に守ることが、アシュタンガ・ヨガの本質を保つ上で不可欠だと主張される。この見方は、ヨーガスートラの「シュラッダー」(信念、信頼)の概念に基づいている。伝統的な教えを信頼し、それに従うことで、真の変容が可能になるという考えである。
一方で、アシュタンガ・ヨガを現代の文脈に適応させ、進化させていく必要性を主張する声も強い。この立場は、ヨーガスートラの「ヴィヴェーカ」(識別力)の概念に基づいている。時代や社会の変化に応じて、何を保持し、何を変容させるべきかを慎重に見極める必要があるという考えである。
Greg Nardi の著書 "The Eight Limbs and the Ashtanga Method"(邦題:『八支則とアシュタンガ方式』)では、アシュタンガ・ヨガの伝統的な実践を、ヨーガスートラの哲学的枠組みの中で再解釈する試みがなされている。Nardi は、アシュタンガ・ヨガの身体的実践を、八支則の全体的な文脈の中に位置づけ直すことで、この実践法をより深い精神的・哲学的基盤に根ざしたものとして再定義しようとしている。
この試みは、アシュタンガ・ヨガの進化の一つの方向性を示している。それは、伝統的な実践法を保持しつつ、その意味をより広い哲学的文脈の中で再解釈し、深化させていくアプローチである。これは、ヨーガスートラの「プラティプラサヴァ」(根本原因への還帰)の概念を体現するものとも言える。つまり、表面的な実践の形式にとらわれるのではなく、その根底にある本質的な原理に立ち返ることで、実践をより豊かで意味のあるものにしていくのである。
アシュタンガ・ヨガの進化において重要なのは、「サマンヴァヤ」(統合)の精神である。伝統と革新、身体的実践と哲学的理解、個人的経験と共同体の智慧、これらの要素を調和させ、統合していくことが求められる。この過程は、ヨーガスートラが究極の目標として掲げる「カイヴァリヤ」(解脱)への道のりそのものであるとも言えるだろう。
アシュタンガ・ヨガを離れる決断:自己探求の新たな段階
アシュタンガ・ヨガの実践者の中には、長年の献身的な実践の後、この流派を離れる決断をする者もいる。この決断は、単なる実践方法の変更以上の意味を持つ。それは、自己探求の新たな段階への移行を意味することが多い。
この決断のプロセスは、ヨーガスートラが説く「ヴァイラーギヤ」(離欲)の概念と深く関連している。長年親しんできた実践法や共同体から離れることは、ある種の執着からの解放を意味する。それは時に痛みを伴う過程であるが、同時に新たな成長の機会でもある。
Angela Jamison の著書 "The Ashtanga Yoga Practice Manual"(邦題:『アシュタンガ・ヨガ実践マニュアル』)の中で、著者は自身のアシュタンガ・ヨガとの関係性の変遷について語っている。Jamison は、長年アシュタンガ・ヨガを熱心に実践し教えてきたが、徐々にその限界を感じるようになった過程を描写している。彼女は、アシュタンガ・ヨガの厳格な方法論が、時として個々の生徒のニーズや限界を無視してしまう傾向があることを指摘し、より柔軟で包括的なアプローチの必要性を主張している。
Jamison の経験は、ヨーガスートラが説く「プラジュニャー」(智慧)の深化のプロセスを体現している。それは、特定の実践法や教えに固執するのではなく、常に自己と他者への深い洞察に基づいて実践を進化させていく姿勢である。この過程で、実践者は「アスミター」(自我意識)との同一化から解放され、より広い視野と深い理解を得ることができる。
アシュタンガ・ヨガを離れる決断は、しばしば「プラティパクシャ・バーヴァナー」(反対のものを修習すること)の原則の実践でもある。例えば、厳格で活動的な実践から、より柔軟で受容的な実践へと移行することで、新たな気づきと成長の機会が生まれることがある。
しかし、この決断は容易ではない。多くの実践者にとって、アシュタンガ・ヨガは単なる運動法以上の意味を持つ。それは、自己定義やアイデンティティの重要な部分となっていることも多い。そのため、この実践を手放すことは、ある種のアイデンティティの危機をもたらす可能性がある。
ここで重要となるのが、ヨーガスートラの「ドラシュトゥリ」(見る主体)の概念である。真の自己は、特定の実践法や役割を超越した存在である。アシュタンガ・ヨガを離れる決断は、この真の自己、すなわち純粋な意識としての自己に立ち返る機会となりうる。
また、この決断は「サンガ」(共同体)との関係性の再定義も意味する。アシュタンガ・ヨガのコミュニティは強い絆で結ばれていることが多く、そこから離れることは大きな喪失感をもたらす可能性がある。しかし、これは同時に、より広い意味でのヨガコミュニティとのつながりを築く機会でもある。
アシュタンガ・ヨガを離れた後の道筋は、個々の実践者によって大きく異なる。ある者は全く異なるヨガのスタイルや実践法を探求し始める。また、ある者はヨガの実践から完全に離れ、全く新しい自己探求の方法を見出すかもしれない。この多様性は、ヨーガスートラが説く「プラクリティ」(個人の本性)の概念を反映している。各個人は固有の性質と可能性を持ち、それぞれに適した道筋を見出していく必要がある。
Matthew Sweeney の著書 "Ashtanga Yoga As It Is"(邦題:『あるがままのアシュタンガ・ヨガ』)では、著者自身のアシュタンガ・ヨガとの関係性の変遷が描かれている。Sweeney は長年アシュタンガ・ヨガを実践し教えてきたが、徐々にその限界を感じ、より柔軟で個別化されたアプローチを発展させていった。彼は、アシュタンガ・ヨガの基本的な原則を保持しつつも、個々の生徒のニーズや能力に応じて実践を適応させる重要性を強調している。
Sweeney の経験は、ヨーガスートラが説く「ウパーヤ」(手段、方法)の概念を体現している。すなわち、目的に応じて適切な手段を選択し、必要に応じて変更する柔軟性である。これは、特定の方法論に固執するのではなく、常に最も効果的な実践法を探求し続ける姿勢を意味する。
アシュタンガ・ヨガを離れる、あるいはその実践を大きく変容させる決断は、ヨーガスートラが説く「ニローダ」(制止、抑制)の概念とも関連している。これは、単に特定の行動や思考を抑制することではなく、より深いレベルでの変容を意味する。つまり、これまでの実践パターンや思考習慣を意識的に手放し、新たな可能性に対して心を開くプロセスである。
このプロセスは、しばしば「タパス」(熱心な実践、苦行)を伴う。長年培ってきた実践習慣や信念を手放すことは、大きな内的な苦痛や混乱をもたらす可能性がある。しかし、この苦痛こそが新たな成長と洞察の源泉となりうる。ヨーガスートラが説くように、苦しみそのものが解放への道となるのである。
最終的に、アシュタンガ・ヨガを離れる決断、あるいはその実践を大きく変容させる決断は、「スヴァーディヤーヤ」(自己学習)の深化を意味する。それは、外的な権威や既存の方法論に頼るのではなく、自身の内なる導き手を信頼し、自己の真の本質を探求する勇気を持つことである。この過程で、実践者は「プルシャ」(純粋意識)としての自己に、より深くつながっていく可能性を持つ。
結論:アシュタンガ・ヨガの未来 - 伝統と革新の調和
本章では、アシュタンガ・ヨガの歴史的発展、その実践の本質、教授法の課題、そして個々の実践者の心理的側面について深く掘り下げてきた。これらの考察を通じて明らかになったのは、アシュタンガ・ヨガが直面している根本的なジレンマである。それは、伝統の保持と革新の必要性、厳格な方法論と個別化されたアプローチ、身体的挑戦と精神的深化、共同体への帰属と個人の自律性といった、一見矛盾する要素をいかにバランスよく統合するかという課題である。
この課題に取り組む上で、ヨーガスートラの智慧が重要な指針となる。「サマンヴァヤ」(統合)の概念に基づき、これらの対立する要素を高次の統合へと導くこと。「ヴィヴェーカ・キヤーティ」(真の識別力)を養い、何を保持し、何を変容させるべきかを慎重に見極めること。「アヒンサー」(非暴力)と「サティヤ」(真実性)の原則に基づき、倫理的で誠実な実践と教育を追求すること。これらの原則を、現代社会の文脈で創造的に解釈し、適用していくことが求められる。
アシュタンガ・ヨガの未来は、単一の方向性や固定的なモデルではなく、多様性と柔軟性を持った進化の過程として捉えるべきだろう。それは、伝統的な教えの本質を保持しつつ、現代の科学的知見や他の実践法からの洞察を積極的に取り入れていく姿勢。個々の実践者のニーズや限界を尊重しつつ、挑戦と成長を促す環境を提供する能力。そして何より、ヨガの究極的な目的である自己認識と解放に向けた真摯な探求を支援する実践共同体を創造していく努力。これらの要素が調和的に融合したとき、アシュタンガ・ヨガは真に現代社会に適応した、生きた実践として進化していく可能性を持つ。
最終的に重要なのは、特定の流派という形式や方法論への執着から自由になることである。ヨーガスートラが説く「カイヴァリヤ」(解脱)の概念に立ち返るならば、真の目的は特定の実践法の完成ではなく、純粋意識としての自己の認識にある。特定の流派や実践法へのコミットメントは、目的に向かう一つの有効な道筋であり得るが、唯一の道ではない。
本章での考察が、あらゆるヨガの実践者、教師、そして研究者に新たな視座を提供し、各流派・実践法のさらなる進化と深化に向けた対話の出発点となることを願う。次章では、この考察をさらに発展させ、現代ヨガ全体が直面する課題、特にヨガの商業化がもたらす影響について詳細に検討していく。
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