見出し画像

本当に江戸末期の建造物?

マッドフラッドの主流な考え方として、200年ほど前の大洪水のような何か、災害や核戦争のようなものによって、文明は一度滅んでいて、今の私達の文明はたかだか150年前後ではないか、というのがあります。

もともとはロシアなどを中心に研究されてきた分野のようで、どちらかというと扱われるテーマも西洋風の建物が中心となっていることが多いようです。
↓とてもわかり易いのでまだ読まれてない方はぜひどうぞ。

その中でもタルタリア帝国という歴史から抹消された国の文化について触れられることが多いのですが、日本にもそのタルタリアにつながる建物や建造物があるのではないか、ということも言われています。

↓最近参考にさせていただいている澄川めぐさんの記事です。非常に読みやすくておすすめです。

僕が見たところ日本では大きく2つの建築様式があり、一つはタルタリア様式といわれる赤レンガや尖塔が目立つ西洋風の様式、もう一つは日本の古城などに見られる石造り・石垣などの様式、ではないかと考えています。

↓こちらも情報量豊富で大変参考になる記事です。

また、僕は知らなかったのですが、京都の南禅寺というところにある古い水路が有名なのだそうですが、それがどうもタルタリア様式っぽいのではないかと界隈では話題だそうです。

で、それを見て気になったものが「石橋」です。僕の祖父母が住んでいた熊本県下益城郡美里町ということろは石橋がやけにたくさんある地域です。これまで何度も目にしてきたし何なら日常的に渡ってきた石橋なんですが、先述のような知識を持った上で見るとまた違った見え方をしてきたんですね。

例えば石造単一アーチ橋として日本最大とされている「霊台橋」なんですが、写真で見ても分かる通り、カーブのところなんか絵で描いたようにきれいな弧になっています。

建築時期はこれまたマッドフラッド的には疑惑の多い江戸末期から明治初期にかけての1800年代中頃。工作機械もなく、深い谷間になっているところで、当時の人たちの技術で本当にこれが可能だったのだろうか、と改めて疑問に思いました。

他にも、「通潤橋」という、中に水道が通っていて橋から放水する機能を持った橋も有名です。こちらも1850年代に作られているようです。

美里町というところは山の中の限界集落的な街で、いくら当時は今より活気があったとしても、何十人もの成人男性の労力を、こんな山間の石橋づくりに何年も駆り出している余裕があったのだろうか?とも思います。狭い地域に30個位も石橋が作られているのです。(もちろんその中には普通に当時でも作れるであろうくらいの小規模で簡素なものもあるわけですが。)

また、以前に父から聞いた話によると、昔このあたりには石橋を作る技術があったが、当時その技術を持たなかった薩摩藩に頼まれて、何十人もの職人さんが薩摩藩に石橋作りに行ったそうです。そこで島津のお殿様は、必要な石橋を作らせた後、その技術を持ち帰らせないために職人を全員殺してしまった、という話を聞かされました。本当かどうかわかりませんが、これだけの石造りの技術があれば、橋だけではなくいろんな建造物もあって良さそうなものですが、それが全く見られないのは、そういう背景のためかもしれませんし、マッドフラッド的観点では、証拠隠滅のために橋以外の建物は壊さ
れた、という解釈もできるかもしれません。

なにせ急に思いついた話なので、機会があったらおいおい調べてみたいと思います。

※なお、これらの話は僕がぱっと思いついたものですので、もしかしたらこれらの作業に関わった方の子孫の方で、ちゃんと我が家にその話が伝わっている、という方がいらっしゃるかもしれません。もしご気分を害したのでしたらお詫びします。そうであればおそらくそれが正しい歴史だとは思いますので、ご指摘いただければこの記事はいつでも修正させていただきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?