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私がオランダで都市学を学ぶ理由

都市学について

そもそも都市学とは何か

 「大学で何勉強してるの?」と聞かれて、「都市学です!」と答えると、「じゃあ建築とか、工学部系?」とお決まりの返答が返ってくるので、そもそも都市学とは何かを説明したいと思います。

 私の学部では、「都市」というスコープで、様々な人間の営みを分析し、理解することに焦点を当てています。コースの内容も多岐に渡り、政治、経済、歴史、心理学、統計、人類学などを都市の視点から学びます。日本にある学問で言えば「都市社会学」に近いですが、社会学のみではないその他の分野を学んだり、実際にデータを収集、定量化して政策に落とし込む方法を学んだりします。卒業してから働く先は、都市計画のコンサルや自治体の都市計画局などで、行政での政策立案を助けるのが主な仕事になります。

どうして都市学を選んだのか

 こんなニッチな学問をどうして選んだのか。という理由は、二つです。一つ目は、感覚的で直感的な理由、二つ目は、社会変革に関わる理由です。

 一つ目の感覚的な理由は、人々の営みや日常の何気ない景色がとても好きだからです。様々な場所で人と人との関わりが生み出す世界は豊かで、とても愛おしいものだと思います。公園で人々が寝転がって空を見ながら話していたり、犬を散歩していたり、そういう日常の一風景に太陽の光が差して、「ああ、きれいだなぁ」と思うような感覚です。
私は、都市のことを学びながら、「私たちを人間たらしめるー暮らしー毎日の営みをより豊かなものにできたら」と、そんな思いを持っています。

 二つ目は、この社会をより公正なものにするために、まちづくりに関わることが今の自分に一番しっくりくる役割だということです。
 私は高校時代に気候変動運動に関わっていたこともあり、「社会はどうしたら良い方向に変わるのか」ということをずっと考えています。当初は、政治などトップダウンの方法で手早く社会の仕組みを変えることが必要だと信じていました。しかし、高校で国際政治を学ぶ中で、国際関係の既存の枠組みの中で社会正義を実現することの限界を感じました。その理由は、軍事的また経済的な力関係が国際社会を動かす最も大きい力であり、その背後には「人間は根本的に悪である」という思想があるということです。
 私は、その国際関係の枠組みの外側で、小さなスケールの社会変化を通じて新しい思想を提案していくボトムアップの取り組みはできないかと考えました。情報が秒単位で世界中を行き交う現代に、小さなモデルケースは地球の反対側で、また隣のコミュニティで人々に知られ、波及効果を生んでいきます。実際に、バルセロナのFearless cityの取り組みなどでは、世界中の都市が国際政治を介さずにグローバルにつながり、草の根の変化を起こしています。

 私は、高校時代に森に公共の空間としてのツリーハウスを作る地域プロジェクトを行いました。その中で自分自身が、オルタナティブな価値観を場所とコミュニティを通じて提案していくことで、社会変革の一部になることが一番しっくりくると身をもって感じました。

潜在意識と都市の暮らし

 そしてさらに、私が注目したのは、都市の暮らしが私たちの潜在意識に与えている影響です。
 環境(built environment)は、その背後にある思想や経済システムをベースとして作られています。普段生活する中でそのようなことは考えもしませんが、その都市環境は私たちの世界と自分自身の捉え方を無意識に形作ります。
 持続可能で公正で、そして豊かな社会を作っていく上で、現在の都市という暮らしのスペースの中で、私は特に以下の三つに課題意識を持っています。

1. 自然と人間の二項対立
2. 暮らしのスペースの産業・商業化
3. 都市のガバナンス

人間と自然の二項対立

 一つ目の「自然と人間の二項対立」は人間と自然が乖離したものとして捉えられる現代(特に西洋社会)において最も主流の考え方です。私は、都市で生活することによって、この価値観の認識が無意識に作られ強化されていくのではないかと考えています。

 都市の中で見る自然といえば、綺麗に刈り込まれた生垣や、定間隔で並ぶ街路樹などです。これらは、人間が管理している「飼い慣らされた自然」であると感じます。建物に関しても、特に東京においては、箱のような無機質な鉄筋コンクリートの建物がほとんどです。地域にある自然資源を最大限生かし、地域の自然と共に存在していた昔の建物とは正反対で、建物の素材はどこから来たのかも分からず、とても画一的で産業的な印象だと感じます。
 このような環境で毎日生活していれば、自然と人間は切り離されたものであると感じるのは当たり前でしょう。

 他にも、都市で生活する人は、食糧調達を大幅にスーパーマーケットに頼っています。白い壁の無機質な店内には、規則正しく、色も形も揃った野菜や加工食品、パッケージされた肉や魚が売られています。「食べる」という行為は、私たちが自然環境によって育った作物を取り込む、という人間が自然の一部であるということを認識する行為の一つです。しかし、スーパーで陳列された食材を選ぶだけであれば、「食べることで自分の体の一部になるものがどこから来ているか」という人間と外界(自然)の繋がりを保つ部分を断絶することになります。インドの活動家であったガンジーは「土を耕すことを忘れることは、自分自身を忘れることだ」と言っています。私たちは、都市においてあまりにも常態化した自然との断絶によって、自分自身を忘れているのではないでしょうか。

暮らしのスペースの産業化・商業化

 街の中心は、基本的に商業に使われるスペースです。出かけて、何かをするには必ずお金が必要で、私たちは都市で消費活動に余暇を費やしています。郊外においても、土日のお出かけ先は大規模ショッピングモールであることも多いのではないでしょうか。消費活動が暮らしのスペースの中心にあることで生き方が受け身化し、「自分で何かを作り出す」という余白がなくなってしまっているように感じます。さらに、街角のあらゆる隙間に入り込んでくる広告や交差点の電光掲示板からは、購買意欲を煽るためのメッセージがひっきりなしに発されています。受け取り側の意図にかかわらず発信され続ける刺激物としての情報は特に大都市の中心に溢れています。そのような環境の中では誰もが感じ、考えることをやめてしまうのではないでしょうか。
 産業化、という面においては、全ての建築環境が効率性に基づいてデザインされていることがその象徴です。多くの建物のサイズ、素材、外観は効率性最優先で設計され、道の設計も車中心で歩行者は端に追いやられています。効率性が私たちの「暮らしやすさ」よりも重要視されて作られたのが現在のまちというわけです。

都市のガバナンス

 私たちは既存の都市の設計を受け容れて、それに合わせて自分たちの生活を作っています。その中でも、人々がまちを使うことで、交流が生まれたり、思い入れのある場所ができたりして、いつしかそれは自分たちのスペースになっていきます。しかし、気がついたら馴染みのエリアで再開発が起こっていたり、地元の公園が全く違うものに作り替えられていたりということはよくある話です。多くの場合、私たちの意志や感情、思い出などには一瞥もくれずに、再開発は進みます。そんな時に感じるのは、自分は暮らしのスペースの変化に対してどうすることもできないという「無力感」ではないでしょうか。
「自分たちの住む街は自分たちのものである」という価値観を大切にし、自分たちの住むスペースを自分たちのアイデアやニーズを元に作っていくことができるような仕組みがあれば、都市は徐々に、より有機的で豊かなものになっていくと思います。

 このように、暮らしのスペースで形作られる潜在意識が私たちの自然、社会に対する考え方、自分自身を作っていると感じています。都市や建築は、見えない思想と見える日常の暮らしをつなぐ結節点であり、この結節点から新しい思想を提案し、「人間らしい暮らし」ができる空間を作っていくことにとてもワクワクしています。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。次回は、「人間の暮らしを中心にした街 (Human-centered city)」とオランダの都市や取り組みの面白さについて書く予定です。

今後も定期的に、大学やオランダ社会での学びをアップデートしていきます!



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