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江戸時代までの民間歯科医療:歯科医療の日本史⑧

 これまで奈良時代から始まる江戸時代までの歯科医療文献から当時の歯科医療について話をしてきました。しかしこれは、朝廷であったり幕府であったり、一部の支配階級内で行われていたものです。我々民衆ではどんな歯科医療であったか?という話をします。(小野堅太郎)

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 とはいっても、文献がほとんどないため詳細はわかりません。ヨーロッパでもそうであったように生薬(植物を加工したもの、もしくは鉱物)による薬を使用した内科的処置がメインで、歯科の外科治療としては「抜歯」であったと思われます。

 とはいえ、民間にはあまり甘いものはさほど普及していなかったでしょうから、虫歯(う蝕)になる人は少なかったと思われます。また、歯周病は加齢と共に発症する疾患ですが(生活習慣病)、40歳以上に長生きする人も少なかったと思われます。ましてや戦乱の時代には平均寿命が下がります。平安時代が30歳以上にあったのに対し、鎌倉・室町時代は20代、10代までさがり、江戸時代で再び30歳以上になります。

 社会不安の時代は戦争もありますが、疫病もはやります。19世紀近代になってようやく、顕微鏡で覗かないと見えない「微生物」が多くの病気の原因となっていることがわかります。それ以前は、病は風と共にやってきました。冷たい風が身体の脈に入り込んで溜まり、様々な病気を発症させると考えられていたようです。突然やってくる邪に対して薬を用いるだけでなく、悪気を追い払う祈祷も行っていたでしょう。というわけで、民間では「僧」が医療を行っていたわけです。

 中国大陸から来た僧は大体「医学(薬学)」を修めていました。家族に病人が出れば、僧が呼ばれて薬を煎じたり祈祷をしたりして治療に当たり、回復しなければそのまま弔ったわけです。これまで紹介してきた口中医たちの多くは朝廷での仕事を終えると出家して民間で医療を行っていました。

 歯の病気に関しては、現在の知識からしたら当然ですが、薬物による内科的治療ではどうにもなりません。そこで、予防医学が広まってきます。そう、歯磨き習慣です。昔は、今のようなブラシ構造ではなく、歯木(しもく)といって木の棒でした。おそらく、歯磨き習慣よりも前に「爪楊枝」文化が広まったとも思われます。下の過去記事で紹介しましたが、インド医学から中国医学に普及した「柳の枝」です。歯の間に詰まった食渣を取り除くことは、う蝕・歯周病予防に効果的です。同時に嗽の習慣も広まります。

 日本では平安時代から大正時代まで、世界的に特殊な口腔内美的感覚が生じます。「お歯黒」です。これは、数日に1回、徹底的に歯を黒く染色する文化です。染色前の徹底的な歯面清掃はう蝕・歯周病予防に大いに役立ったと考えます。

 もう一つ、不思議な予防法がありました。「歯固め」です。現在は歯が生えてきた赤ちゃんのおしゃぶりのイメージですが、地域によっては年末・正月に既定の品を既定の順序で食べることを「歯固め」といっています。これは平安時代から続く成長を祝う習慣・文化です。もともとは、「歯の健康のために、歯をたたく、固いものをたべるとよい」という古来の言い伝えに由来しています。

江戸時代になって社会が安定してきます。有名な「富山の薬売り」により全国に薬が流通するようになってきます。また、大きな薬屋が出てきます。田辺製薬や武田製薬は江戸時代に誕生しています(それぞれ1646年:大阪、1750年:奈良)。抜歯はちょっとしたショーになり「歯抜き師」により見世物になります。同様のことがヨーロッパでも起きています。日本では入れ歯に関して卓越した技術史を持っており、これについてはいづれ別記事にまとめます。

 これが、明治時代に入り、一気に別の医療へと生まれ変わり、「歯科」という言葉が現在にまで定着します。江戸時代までは「口中科」もしくは「口科」と呼ばれ、生薬による内科的処置か、歯磨きによる予防法ぐらいしか行われていませんでした。さあ、いよいよ歯科医医療の近代史を書ける準備が整いました。

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