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科学的観点からみた存在の危うさ:ソラリスの何が凄いのか②

前記事でソラリスの映画が全く原作ソラリスとは異なることについて説明したが、じゃあ原作はどんな話なのよということを説明してみたい。(小野堅太郎)

 レムによる原作ソラリスとタルコフスキー版映画である惑星ソラリスは共に傑作である。しかし、大まかなストーリー進行は同じであるものの、テーマが全く異なる。同じようなものとしてスティーブン・キングの原作小説シャイニングとスタンリー・キューブリックの映画シャイニングが挙げられる。主人公が思い悩んで徐々におかしくなっていく原作の恐怖とは違って、映画は唐突に怖くなる。キングからするとコツコツと練り上げた狂気への道筋をキューブリックが削除してしまったのは納得いかなかったろう。しかし、出来上がった映画は、キューブリックの芸術的映像演出により傑作となり、商業的にも大ヒットとなった。

 タルコフスキーの映画、惑星ソラリスは、彼の映画全てに共通する「郷愁」を根本としている。原作にはない主人公クリスの父や母が登場し、水辺の家の家族との会話から始まり、ソラリスの海から降り注ぐ雨の中で家族の思い出に包み込まれる終わり方である。ヒロインのハリーは一途でエキセントリックな性格で、中盤のドラマを盛り上げる(タルコフスキーにこういったドラマ仕立ては珍しい)。原作にもあるクリスと同僚スナウトとの深い語り合いと友情もきちんと描かれ、2002年のソダーバーグ版にはない原作に沿った展開もある。

 しかし、原作は全く違うのである。クリスとハリーとのやりとりは一見メロドラマ風の展開ではあるけれども、「存在とは何か、思い出は改変されるものである」ということを叙述するためのエピソードでしかなく、その問題はスナウトとの議論の中でさらに深掘りされる。登場人物はそれぞれの背景を深く説明されることはなく、ハリー以外の「お客さん」はほとんど描かれない(お客さんについては後述)。登場人物たちはソラリスでの経験と向い合い、戦い、そして受け入れ、最後には喪失し、「生きるとは何なのか」を噛みしめる。クリスは混沌の中、「どう生きるのか」を模索しつつ「残酷な奇跡」を胸に突き刺したままで終わりを迎える。郷愁などまるでなく、むしろ「郷愁なんぞ自己の中で美化した幻」というような内容なんです。

 読んでない方のために、大まかなあらすじを説明します。大筋はSFミステリーです。

 物語は唐突にクリスが宇宙船に乗り込むシーンから始まり、惑星ソラリスの海上に浮かぶステーションにたどり着きます。誰も迎えてくれない状況に困惑しながらもクリスは、乗員のスナウト、サルトリウス、そして師匠のギバリャンの三名を探します。荒れ果てたソラリスステーションを探索する中、初めにスナウトに合うのですが、奇妙な驚かれ方をします。クリスが来るという連絡を聞いていたにもかかわらずです。さらに、クリスがこの荒れ果てた状況を尋ねると「今、説明しても意味ないから、後で」と言われます。その後、ステーション内で存在するはずのない女を見たり、研究室に籠るサルトリウスの部屋から子供の声が聞こえたりします。首を捻りながら眠りに着くと、目を覚めたとき、存在し得ない恋人であるハリーが自分の前に現れるわけです。つまり、ステーション内では搭乗員の過去の記憶に由来した「存在し得ない存在」が存在するという謎の現象が起きていることが明らかとなります。

 ソラリスは地球から遠く離れた惑星で、2つの恒星を回っており、有名な「三体」の軌道の中にいます。中国のSF作家である劉慈欣の大ヒット小説「三体」と同じ物理学課題、三体問題の環境にある星です。ですので、軌道予測が難しく、急に暑くなったり寒くなったりととても生命が存在することが難しい世界なのですが、どういうわけかソラリスは周期的な軌道を描きます。研究により、ソラリスに存在する巨大な海が一つの生命体として機能しており、海の活動によって重力さえもコントロールしていることがわかってきます。人間たちはソラリスの海を調査し、何とかコミュニケーションが取れないかと取り組むわけです。長い長い研究の中でソラリスステーションに3人の研究者を送り込んだところ、急に連絡が途絶えてしまいます。研究者の1人、ギバリャンが弟子のクリスを来るように要請し、物語ははじまったといわけです。

 こういったあらすじも、実は明確に書かれていません。読んでて「そうなんだろうなぁ」と小野が感じたものです。ハリーのことを恋人と書きましたが、説明はありません。スナウトから尋ねられたクリスが、あたかも嘘を絞り出すように言った説明が「・・・恋人だ。」と言うだけです。間違いなく妻ではありません。おそらく倫理的にまずい対象です。不倫相手、もしくは姉妹ではないかと推測しています。なぜかと言うと、ステーションでは、ハリーのような突然現れた謎の存在は「お客さん」と呼ばれているのですが、クリス以外はみんな必死で隠すくらい「他者に知られたくない存在」だからです。クリスをステーションに呼んだ師匠のギバリャンは、苦痛を感じて自殺までしていました。つまり、クリスにとってもハリーは「絶対知られたくない存在」であり、絶対恋人ではないわけです。

 ハリーについて確かなことは、過去にクリスが酷いことを言ってしまい、自殺の真似事をして本当に死んでしまった相手だということです。クリスは慌てて、ハリーを騙してシャトルで宇宙空間に排出してしまいます。ところが、翌朝、何事もなかったかのように、またハリーが寝室に現れるわけです。

 クリスはハリーの血液をとって、顕微鏡で観察します。作者のレムは医学校を出ていますので、医学にも詳しいです。血液はからは確かに赤血球が観察されます。ところが、解像度を上げて原子レベルの観察から先に行くと、途端何も見えなくなるわけです。そこで、小説が発表される直前の1950年代に観測成功したニュートリノが登場します。日本物理学界では、お箱ノーベル賞であるニュートリノです。クリスは「ハリーはおそらく、ソラリスの海がニュートリノで作ったニセモノである」と仮説を立てます。

 なぜソラリスがそんな事をするのかは全くの不明です。お客さんたちは、地球で存在していた時と全く変わりがありません。しかし、記憶の面で明らかに「当時は知り得るはずなかった事」を知っているし、「自分は知らなかったけど、当然あるはずのもの」がなかったりします。これらのことから、寝ている間に記憶が読み取られ、その人物の最も心に刻まれた存在を「お客さん」として再現しているのではないかとの仮説が立てられます。とにかく「仮説」だらけで、証明されることはありません。

 当のハリーはというと、次第に自分の正体に気づき始めます。自分は何者なのか。存在してもいい存在なのか。映画「惑星ソラリス」の屈指の名シーンであるハリーの自殺とその復活において、生き返ったハリーは逆に「クリスの存在」を疑い出します。何が現実で、何が夢なのか。本当に名シーンです。死から復活したものは、復活した世界を現実だとは思えなくなる。物語の表と裏が溶け合う最高の演出です。

 科学は発展し、物質をこれ以上分割できない単位として「原子」を定義づけしました。しかし、原子はさらに素粒子に分けられることがわかってきました。ソラリスは少なくとも「原子」までは再現し、その素材としてニュートリノを使用したという設定になっています。現在は、反粒子やダークマターなどもあり、存在の確認が急がれています。物質の存在は一体どこまで小さく細かく分割されるのでしょうか。ニュートリノで構成され、記憶や感情を持った死なない存在は、ヒトではないことは明らかですし、ハリーそのものではありません。しかし、「お客さん」は、クリスの記憶から構成されたとはいえ、その記憶や感情からハリーとしてしか存在し得ないわけです。

 ソラリスのミステリー部分の種明かしをしてしまったかもしれません。ソダーバーグ版映画で語られるロマンス的ストーリーを壊してしまったかもしれません。だとしたら謝ります。しかし、原作ソラリスは、科学的知見からのみた存在の危うさを、論理的というよりも物語という感情メインで読み手に語りかけてきます。ミステリーやロマンスとしてだけ語られるのは相応しくありません。

 どう言った結末を迎えるのかは、原作を是非読んでください。新訳で追加された幻想的なソラリスの観察描写は、詩的でありかつ、濁りのない無邪気で透き通ったイメージの連続です。これを削ったらダメだよな、という内容です。

 次の記事では、ソラリスの中で描かれるメタサイエンスについて説明します。

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