自分を見つめることのむつかしさ

(1)「自己をみつめる」という言葉で想起されるのは、山田無文氏の「自己を見つめる-ほんとうの自分とは何か-」
(2)一方で、見つめている自己は自己だから、自己が自己を見つめることなんてできないと言われる。
(3)他の分野では、自己を見つめるのは、仏様の前ではじめて見つめることができるともいわれる。
(4)マインドフルネスによる一部の自己観察も、自己を見つめる一つの方法だろうと思う。
(2)は除外するとして、どれも本当かもしれないけど、それぞれがなかなかむつかしい面がある。
(3)は簡単に言うけど、仏壇の前に座ってるだけで自己を見つめることができるかというと、そうではないと思う。

僕は自己を見つめることができるのは、まずは他者によってではないかと思う。その一つの方法がカウンセリングや心理療法と言われるものだ。
恐らく、大半の人は、カウンセリングや心理療法は受けたことがないのではないかと思う。何か病的な状態でないとそういうとこにはいかないから、僕は必要ないとかということだったり、カウンセリングに行く人は弱い人だとかであったり、どこからそういうイメージが植え付けられたのかわからないが、おそらくそういうことではないだろうか。
しかし、自分がどうにもしようがなくって、普通の医者に行ってもどこも悪くない、いろんな検査するけど、問題ない、精神科に一度行かれたらどうですか?と言われ、そちらに行く。そして、精神科のお医者さんがカウンセラーとかとうまく連携している方なら、カウンセリングにちゃんとリファーしてくれる。それでやっとカウンセリングに触れることができるわけだ。
ところが、ここで問題が起きる。ある程度プライドが強い方は、ここでそのプライドというものが出てくる。そこでひと悶着あるわけだ。
優秀なカウンセラーはそれをわかっている。そのプライドが現在の大きな問題を作りだしているんだということが。
自分がどうにもしようがなくなるということは、変容の兆しなんだ。
いわゆる精神の問題が起きるのは、いままでの価値観ではだめなんだよーというメッセージだと僕は思っている。だから、本当は「精神の病」ではない。変容のプロセスなんだ。
そこで、変容しきれずに、以前の価値観で物事を処理しようとして、いままでの自己イメージをひっぱってくると、いつまでたっても変容が起きない。
もしかすると、その変容への抵抗を別の場所で発散してしまい、いろんな人を巻き込んでしまうことになる。
15年前そういうことをたくさん見てきた。

それにいつ気づくか。
回りでいろんなトラブルが起こりだすときが気づく時だ。
そのトラブルは自分にそういうことを教えてくれる大事なメッセージだ。
そういう時こそ、なんでもいいから、なんらかの心理療法を受けてみることだ。いくつかの心理療法は、頭を離れて、感覚に引き戻してくれる。
頭で考えてやろうとすると、ファシリテーターは、感覚に引き戻してくれる。

別に、どうしようもなくなるということが無くても、大きな問題がなくとも、半年に一回くらい、自分が今直面している問題に対して、カウンセリングを受けると、なんらかの変容があるかもしれない。
カウンセリングや心理療法て別に怖いものでもなんでもない。
怖いと思わせるのは、自分自身の心の中にある、ある種の心理学に対する誤解であったり、自分の中身を見られることへの抵抗であったりする。
でも、心を開けば、そんな怖さなんてなくなる。

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