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人生にも「季節」がある

春、夏、秋、冬という季節があるように、人生にも「季節」というものがある。

僕がそのことを最初に意識するようになったのは、意外に思われるかもしれないが、「遊び相手の変化」によってである。

まだ広告会社に勤めていた20代後半のころ。不思議と当時は、女友達と遊ぶことが多かった。遊ぶと言ってもせいぜいお茶をしたり飲みに行ったりする程度なので、「遊んでる」というより「話してる」というほうが正確かもしれない。

で、会社の先輩は月曜日になると必ず「週末何してたの?」と聞いてくるわけである(笑)。特に他意はなく、会話の糸口にすぎないのだが、そこで僕が女性とお茶をして……という話をすると、「お前、男と遊ばないとダメだぞ」ということを言われるわけである。

先輩の言わんとすることはわかる。遊びにもやっぱり「男同士だからできる遊び」というのがあって、それはより子どもっぽくて、ばかばかしい、面白さを追求するような遊びである。そしてコピーライターとしての感性をみずみずしく保ち続けるには、そういう遊びも実は大切なのだ、と(彼が直接そう言ったわけではないけれど)。

しかし僕はそのことを理解しながらも、全く現状を変える必要性を感じなかった。なぜなら、今は女友達とよく遊んでいるけれど、やがて男友達とよく遊ぶような時期がやってくることが、なんとなくわかっていたからだ。

というのも、男友達と遊ぶことが多い時期も、女友達と遊ぶことが多い時期も、意識的にそうしているわけではなく、自然とそういう時期がやってくるのである。それは論理的な話ではなく、経験的な話である。

多くの人がおそらくそうであるように、小、中学生のころは、やっぱり同性と遊ぶことがほとんどだろう。ところが高校生になると、僕の場合はなぜか女子グループの中に混じって遊ぶようになり、時には女子7人の中に男子は僕1人、なんてこともあった。きっとあまり異性として認識されていなかったのだろう(笑)。

それから大学生になるとまた男友達らとつるむようになり、そして会社で働くようになってから、また女性と遊ぶことが多くなった。

やがて僕はこのような変化を、巡りゆく「季節」のようなものだと思うようになった。つまり遊び相手の傾向はずっと同じではなく、循環するように変化してゆくのだ。

このような「季節」の存在は、なにも遊び相手の変化に限らないのだと思う。「今すごくギターにハマッてて……」とか、「この作家の小説ばかりをずっと読んでいる」とか、「時間ができたらとにかく旅行に行きたい」とか、そういう興味関心の変化もまた、ひとつの「季節」なのだろう。幸、不幸というものにも、そういうところがある気がする。

しかしそれがその人にとっての「巡りゆく季節の、あるひとつの季節にすぎない」ということを、他人が見て理解することはむずかしい。それを理解するためには、その人の循環する季節の全体を、長期的な視野で俯瞰しなければならないからだ。

ものすごく付き合いの長い友人や家族ならそれも可能かもしれないが、つい最近知り合ったような人に、そんなことはわかりようもない。そのひとつの季節だけを見て、「その人は、そういう人なのだ」と思ってしまうのではないか。つまり僕が女友達とよく遊ぶ頃に出会った人は、僕のことを「そういう人」だと思い込んでしまう。ところが別の季節に僕のことを知った人は、全く別の印象を持つだろう。

そういう視点からどんな忠告をされても、それがひとつの「季節」にすぎないと知っている当人にとっては、「うーん、まあ、そうなんですけど……」という感じになってしまうだろう。

このことを知っているといいのは、他人に対する一面的な理解、それによる決めつけのようなものを、ある程度は予防することができることだ。それだって、けっこう意識しないとむずかしいのだけれど。

さらにそのことは、自分自身に対しても言える。つまり自分自身に対する一面的な理解、それによる決めつけを、ある程度は予防できるのだ。

人間生きていれば、「こんなことばかりやってて、僕は大丈夫だろうか……」と思うような時期もあるだろう。でも、それもそういう「季節」なんだと知れば、決してその季節が永遠に続くわけではないと思える。

じゃあ今はせいぜいこの「季節」を楽しもう、とさえ思えるかもしれない。そして夏に冬を楽しむことはできないし、冬に夏を楽しむことはできない。どうせ季節は巡るのだということを知っていれば、今の季節を楽しめばそれでよいのだとわかる。

もちろんそこで忘れてはならないのは、夏には夏にするべきことがあるし、冬には冬にするべきことがあるということである。農業が自然のリズムに逆らっては成立しないように、人生にもどこか逆らうことのできないリズム、いや、逆らう必要のないリズムのようなものがあるのではないだろうか。

僕らは人生を「直線的な時間の流れ」として捉えるけれど、そこには同時に「循環する時間の流れ」としての「季節」が存在していて、僕らはその両方の時間を生きている。

しかもその季節は1年単位のものもあれば、10年単位のものもある。もしかすると現世を超越して、来世も含んだ季節の循環もあるかもしれない。それを人は輪廻と呼ぶのかもしれないけれど、それはもう個人の認識を超越した次元の話になる。

ところが、それを認識可能にするのが「共同体」の存在である。個人の生は有限だけれど、「共同体」の生は無限である。個人の経験が、共同体を通して語り継がれ、それらが積み重なることによって、個人にはなし得ない超長期的な視野を獲得することができる。

他者の人生における「季節」を理解するためには、「その人の循環する季節の全体を、長期的な視野で俯瞰しなければならない」と言ったが、共同体という主体は、個人の生を超越した「季節」をも認識することが可能なのである。そしてそのようなものを定式化したものが「神話」とか「迷信」と呼ばれるものなのではないかと僕は思う。

だからそれを「個人」の認識で理解できないのは、ある意味で当然なのだ。しかしそこには、個人の生を超えた、超長期的な「季節」に対する認識が含まれている。

僕たち一人ひとりの人生を、そのような超長期的な視点から眺めることができたなら、もっと落ち着いた、地に足の着いた生き方ができるような気がするし、まだ伝統的な共同体が生きている時代や地域では、それが可能なのだろう。

個人としての僕にそのような認識は不可能だけれど、せめてそういう「季節」の存在くらいは、意識しながら生きていきたいと思う。

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