「ほうれん草を育てながら哲学してみた」第5話〜魂の関心はずっと変わらない〜
植物は動く。
動きがあまりに遅いために、僕たちはそれを「運動」として認識できないだけだ。その証拠に、植物の成長を録画したビデオを早送りすると、びっくりするくらいアグレッシブに動く植物の姿を見ることができる。
僕は哲学、特に時間論を専門にしているのだが、これも時間の不思議、マジックである。人間の認識を可能にするのは「時間」だが、人間の認識を困難にするのもまた「時間」なのである。
さて、芽を出して双葉にまで成長したほうれん草だが、こいつがまあよく動くのである。もちろんニョキニョキと成長する姿を目の当たりにできるわけではないが、明らかに「光の差す方を向くために動いている」のである。
ウチはベランダがないので、屋内にプランターを置いている。そうすると日が沈んだ後は、太陽ではなく、室内の照明がほうれん草を照らすことになる。そこからのほうれん草の切り替えの速さはすごい。
さっきまで窓の外を覗き込むようにしていた双葉は、小一時間もしないうちに、室内の照明の方に葉を方向転換させているのである。「植物は動く」ということは知っているつもりだったが、この速さにはちょっと驚いた。
だがこれは、小さく柔らかい双葉の頃だからこそなせるわざだろう。大きく成長してしまった後には、ここまでの機敏な動きは難しいはずである。逆に言えば、そこまでする必要がなくなる、ということなのかもしれないが。
この小さな双葉の機敏な動きは、小さな子どもが興味を持ったものにすぐ飛びつく姿に重なる。
「何これ?」「面白そう!」と思うやいなや、考える前にさわってみる。口に入れてみる。叩いてみる。壊してみる。そうしているうちにまた別の関心が生まれると、これまた躊躇なくそちらへ動く。
そこには余計な計算も邪な心もない。まさに「無邪気」である。だからこの時の子どもの関心は、その子どもの魂の関心とほとんど重なりあっているのではないだろうか。
ところが大人になるとそうはいかない。「何これ?」という関心の芽が生まれても、それはひとまず置いといて、きちんと「自分がいまやるべきこと」に意識を向けることが「できてしまう」。
これは社会生活を営む上で欠かせないことだ。しかし一方で、せっかく生まれた関心は、いつの間にか消え失せてしまっていたりもする。
小さな双葉のように、小さな子どものように、躊躇なくそちらへ向かう、というわけにはいかない。だがそうしているうちに、自分の魂が本当に興味を持っていること、好きなことが、わからなくなっていってしまう。
大人になってから人生に迷ったとき、必ずといっていいほど見聞きするのが、「自分が本当に好きなことをやればいいよ」という言葉である。ところが、うまく社会に適応しようとするあまり、ずっと魂の関心を後回しにしてきた結果、「自分が本当に好きなこと」がわからなくなっている、ということが往々にしてある。
その時に改めて「自分が本当に好きなことは何だろう?」と考えても、なかなか見つからない。というのも、「好き」というのは論理的に考えるものではなく、感じるものだからである。やってみて、「あ、これ好き」と思うのであって、やる前には決してわからない。
もちろんある程度当たりをつけることはできるし、生理的に「あれは好きじゃない」ということもあるだろう。でも実際にやってみたら、「あれ、意外とめっちゃ面白いやん」となることもある。人間関係にしても、会う前はなんとなく悪いイメージを持っていたのが、会ってみたら「実はめっちゃいい人やん」となることもある。でも大人になると、その「やってみる」のハードルが非常に高くなる。
そんな時、「子どもの頃に好きだったこと」に立ち返ることが有効になってくる。子どもの頃は魂の関心に忠実なので、魂が興味を持ったことに躊躇なく飛び込んでいく。そのことによって、いろんな体験を積み重ねていく。
だから、子どもの頃に好きだった事や物を思い出すことによって、自分の魂の関心に立ち返ることができるかもしれない、というわけである。
こうしたやり方が成立するのは、「魂の関心はずっと変わらない」ということが前提になっているからだろう。だとすれば、子どもの頃に心から楽しいと思ったことは、大人になってもずっと楽しいはずだ。
もちろん、その関心の満たし方が変わっていくということはあるだろうが、根源的な関心というのは、ずっと変わらないような気もする。その関心が、植物で言えば「太陽への関心」であり、若葉はアグレッシブに太陽に向かって動くことができる。
大きく成長してからも太陽に向かう性質は変わらないが、そのスピードはずいぶん遅くなる。それは葉や根が大きく育って、そこまで動く必要がなくなる、ということかもしれないし、「そんなに慌てなくても、また明日になれば太陽は照らしてくれるよ」ということを経験的に知るからなのかもしれない。それは植物に聞いてみなければわからない。
ただ確かなのは、若葉の時の柔軟性は、成長とともに徐々に失われていくだろう、ということである。これは基本的に人間も同じだろう。
成長することは死に近づくことであり、死に近づくことは「やわらかさ」を失うことである。その過程は「強さの獲得」でもあるが、間違いなく死に向かう過程なのである。
その過程そのものが「生きること」そのものであり、それは絶えざる変化の過程とも言える。けれども不思議なことに、そんな「変化の過程」の中で、「魂の関心」は変わらない。そしてその関心に最も忠実なのが、子どもの心である。
人生に迷った時、偉人の言葉をひもとくのもひとつの方法だが、「まだ何者でもなかった子どもの頃の自分」の心をひもとくのも、ひとつの方法かもしれない。
ただただ光に向かっていく若葉の頃の素直さ、やわらかさ。それこそがまさに「生命力」なのだろう。
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