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今日の問い:勇気をもって”自分らしき何か”を見つめることは出来ているか?


“自由意思”も“自我”もあるという思い込みの前提で進むことになるが…僕という一人称は、僕自身として認識されるものから目を逸らさずにいられているだろうか?

「ある」として認めているか?

肯定、否定ともちょっぴり違う「ある」という感覚と、「しっくり感」を大切にしていきたいな再認識した。

肯定や否定は自分というものが、すごくコントロールできる何かであるような傲慢さから来ている気がする。

もっと大きなものの中の、操作可能な変数が限りなく小さい世界で、ぽっつりと生きているはず。

それがあるという感覚で、その中でも自分に対する「しっくり感」が自分らしき何か、自我や自由意志とはちょっと違う自意識?っぽい何かなのかもしれない。

もっと言うと「自分のコア」っぽい何か(自分なんてものが存在するか分からないが存在するとして、その中心にある不動に限りなく近いコア)がしっくり感を生む、自意識の基本概念のかもな、と思っている。

一度自分らしき何かの頭上に神や上位観念を創造して、そして同じ人類だが別の人を大量に添えて、それらの視点からコアを捉えてみようとすると、到底処理出来ない何か?無限項数?の多項式?に襲われてしまう。神とか上位観念みたいな意味不明な長期スパン・多元宇宙の世界観から自分を見てみたらって考えてもぽっつり感が強化されるだけである。そして、別の人の視点など作っても、存在しない罵詈雑言・過剰な褒め・無関心が無限の時空間を行き来して大勢の人から向けられる感覚を持つことになる。

ぽっつりと自分を見つめ直そうとすることになるが、そこに「ある」だけの自分を、物理世界っぽい何かに存在するものを、何のフィルターも通さずに見ようとする営みの難しさに向き合おうとすると、何してるんだろって感覚になる。

それでも、何だか自分らしき何かを見つめずに逸らすことは、説明不能の何かから逃げている感覚になる。”善悪”は相対的なものだと思っていたが、何と比較して自分らしき何かが悪らしいのか、は分からん。分からんすぎるが、何か違和感を覚える。

だからこそ、見つめる”勇気”を持ち合わせたい。今、この瞬間に出来ているか?は分からないが、少しずつ見つめることに慣れていきたい。


少し見つめてみると、自分が愛と情熱を捧げるものは、人の知覚や認知に関する観念かも事実かも分からない何かであると、そんな気がしてくる。

それをもっともっと知りたいし、もっともっとワクワクしたいし、もっともっともっとって感覚が続いている。この探求心は何処から来るのだろうか。

足らない。いつまでも、足らない。足りるわけがない。

たまらなくワクワクするし楽しいのかもしれない。

この心で、起きて寝て、考え続けて、何かに纏めてみたりする。

同時に、何も進んでいないようでちょっぴり不安であり続けて、適切に嫉妬して、積極的に見下されて、ネガティブになる、この感覚も全て含めて、営みも自分も空気も、愛し続けられるだろうか?

もっと知覚・観測・認識について、観念的にも、”科学っぽい側面”からも知って考えて。誰もが一瞬では理解不能な複雑な知の領域を紐解いていく営みを、じっくりと、丁寧に。

そんな決意?表明をこの場に残しておく。

2024/06/19 独り言

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