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人間は、いつ「想像力」を大切にし始めたのか(前編)

(※この記事は2020/02/26に公開されたものを再編集しています。)

「想像力は大切だ」という常識

 前回の「学びと哲学」では、想像力を扱った。そこで描いたのは、人類が「見えないもの」と対峙するかのように、「わからないけれど、考えなければならない何か」について思考を進めてきた様子である。

 恐らく、現代人の大半は、「想像力は大切だ」という考えに同意するのではないだろうか。年齢や性別や業種を問わず、飲み屋で酔っ払った人も、家事従事者も、会社員も、研究者も、役人や役員も、恐らく、同意するはずだ。

スティーブ・ジョブズも、北野武も、バラク・オバマも、エマ・ワトソンも、「想像力」という言葉こそ使わなくても、想像力に相当するものの大切さを語っている。ここに挙げたのは、適当に今思いついた著名人の名前にすぎない。それを少し検索してみるだけで、該当する発言が見つかるのだから、「想像力は大切だ」という考えは、私たちの「常識」と言えるほどに浸透している。

「想像力は大切だ」という発想の新しさ

 けれど、「想像力は大切だ」という考えは、歴史的に見れば、比較的新しい発想である。想像力は大切な能力であり、私たちはその力を伸ばした方がよいとの考えが、目立って力を持ったのはせいぜい19世紀のことだ。研究者によってどこに切断線を求めるかは、多少の揺れがあるのだが、いずれにせよ境界線の一つが19世紀に引かれることは間違いない(なお、ここでは西洋史を念頭に置いていることは言うまでもない)。

 歴史をたどれば、想像力が大切だという発想が定着してから、ざっくり200年ほどしか経っていない。そう聞けば、恐らく大半の読者が、「なんだ、200年も続いているじゃないか」と思うかもしれない。だが、私としては、時間スパンをもう少し長くとって、この事実を見つめることを勧めたい。この事実を裏返せば、19世紀で発想が転換するまで、「想像力は、他の能力に比べると、それほど大事ではない」と思われていたということだからだ。今回は、この辺りの事情について語ろうと思う。

「想像力は大切だ」vs「理性は大切だ」

 想像力以外の人間の心的能力については、依拠する思想家によって色々な分け方があるのだが、ここでは単純化して、人間には「想像力」と「理性」があり、それらが対比されてきたと考えることにする。

 かつて、想像力は、実に劣った、不安定な能力だとみなされていた。というのも、何も確実なものを指し示さず、想像する度に出力が異なっているからだ。想像力は、社会や生活、生や死、神といったシリアスな問題に取り組む上で、当てにならないとみなされたのだ。

 想像は、むしろ、神がかりや狂気と結びつくものと考えられてきた。その安定しなさが、非合理的で、感情的なものを背景にしているとみなされたからだ。

 それに対して、理性のアウトプットは、それが正しく用いられる限りにおいて安定している。少なくとも、毎回同じ答えを出す能力として、理性は思い描かれてきた。不安定な時代において、「これだけは確実だ」と言えるような絶対的な真理を欲しがった私たちは、理性を人間の優れた能力として持ち上げてきたのだ。(*)


前回のコラム「『見えない相手』と対峙する:想像の人類史」 https://manabitoki.castalia.co.jp/home/imagine-human-history

(*)今回のコラムは、過去の研究成果を一部流用している。より詳しく知りたい方は、そちらを参照いただきたい。谷川嘉浩「ロマン主義的遺産の相続者、ジョン・デューイ : コールリッジとデューイの想像力論」
https://ci.nii.ac.jp/naid/40021365299


後編に続く

2020/02/26

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。


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