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想像力を創造する「時間」と「言葉」

(※この記事は2020/04/30に公開されたものを再編集しています。)

私たちの想像力は創造的なのか?

 想像力は創造的だと言うし、前回までのコラムでもそんな話をしてきた。けれど、実際には、散々悩んで唸って想像し考え出したものは、案外に陳腐だ。私たちの想像力の出力が、実にくだらない結果に終わることは少なくない。誰もがクリストファー・ノーランのような創造性を発揮できるわけではないし、誰もがスティーブ・ジョブズのようにイノベーションを起こせるわけでもない。

 要するに、私たちはみな想像力を持っているのだが、私たちの想像力は大抵創造的ではないのだ。いや、それだけで話は終わらない。クリエイティブな人間の代表として挙げた、ノーランやジョブズも、常に創造的というわけではない。

想像力を創造的に用いるには

 ノーランやジョブズは、あるタイミングで決定的な創造性を発揮したのだが、生活の中で四六時中クリエイティビティを発揮したわけではない。極端な話、挨拶や食事の手法が「創造的」では困るだろう。彼らの生活だって、大抵の場合凡庸であり、パターン化されている。というより、そうでなくてはまともに暮らせない。

 想像力は、誰もが持っていて、常に何らかの仕方で発動しているのだが、劇的で目立った正解をもたらすとは限らない。このことは、私たちの怠慢ではなく、想像力の特性に由来している。

 こうした特徴に注目した哲学者のジョン・デューイは、「想像力が、習慣から大きく影響を受けている」と指摘した。想像力は、常に習慣に左右されている。もしパターン化を外れた仕方で想像力を運用することができたなら、そのとき初めて、想像力は創造的になる。だからこそ、想像力の創造性を発揮するには、自分たちがどのような習慣に支配されているのかを知ることから始めねばならない。

もの見方は習慣の産物である

 ところで、デューイは、人間がすでに持っている、ものの見方のことを「先入見(prejudices)」と呼んだ。日本語の日常的用法における「先入観」と違って、それが悪いものだというニュアンスは特にないので、「先入見」と私は訳している。

 興味深いことに、この先入見は、「知的習慣」と言い換えられることがある。私たちは、生まれ落ちた社会から、色々な「もの見方=先入見」を学び取るのだが、それはある種の習慣でもある。私たちの考えは、生まれ育つ中で学んできた習慣を束ねたものだと言える。

 とはいっても、読者は自分の日常的な見方や見解が「習慣」にほかならないなどと言われても実感できないだろう。それを実感してもらうために、遠い社会のことを考えてみることにしよう。ここで手がかりにするのは、アフリカの時間感覚である。

アフリカの時間感覚

 時間というと、どこでも一緒だろうと考えるかもしれないが、実のところ、時間に関する私たちの想像力もまた、文化的な影響を受けている。

 ジョン・S・ムビディは、アフリカで広く話者を持っているスワヒリ語に注目し、時間について論じた。スワヒリ語の時間の観念は、「遠い過去」と「現在」に分けられ、そこに、私たちのイメージするような「未来」という観念はない。

 アフリカでは、時間は抽象的な数字の積み重ねではなく、具体的な事柄や行為との関係において理解される。だからこそ、抽象的な未来は、単にそこにないものであり、認識の対象にならない。

 興味深いことに、収穫など自然界の事柄、近い未来に確実に起こる事柄は、ある種の「現在」として理解されている。現在時制――と呼ぶのは、もはや違う気がするが――の中に、私たちが「未来」と呼びたくなるものが含まれているのだ。(*)

私たちは「時間」について学んだ

 こういうわけで、先進国の人たちが生きているような「過去―現在―未来」という時間感覚で、アフリカの時間感覚を説明できない、とムビディ考えた。代わりに、スワヒリ語の「ササ」と「ザマニ」という言葉に彼は注目し、それを詳論している。

 ここでそれを繰り返しはしない(気になる読者は、彼の『アフリカの宗教と哲学』を紐解いてほしい)。ただ、時間を編成する感覚が、文化によって大いに異なる(ことがある)ということが確認できれば、ここでは十分だ。

 私たちは時間と言うと、「過去―現在―未来」だと素朴に考えているし、それらを直線的に理解している。それは、私たちの人生観すら規定しているだろう。しかし、あらゆる社会や文化が同じような時間を生きていたわけではない。私たちが、「過去―現在―未来」という時間感覚を生きているのは、単にたまたま、それを当然とする社会に生まれ育ち、知的習慣(先入見)として身につけてきたからだ。つまりは、この時間に関するものの見方は、「教育」の所産なのだ。

ヒップホップにおける時制の創造

 しかし、習慣はたとえ強固だとしても不変ではない。私たちは常にパターンにはまっているが、パターンを脱することは可能である。神学者で牧師の山下壮起は、アメリカのヒップホップの宗教性について論じた書籍の中で、“be”という時制を無視したような独特な表現が登場するラップを紹介している。山下が諸々の検討の末に示唆するのは、その“be“の表現には、ムビディが説明したようなアフリカ的時間感覚が現れているのではないかということだ。「過去―現在―未来」とは異なる時間が、“be”に織り込まれているのだ。

 同書で山下が紹介しているラッパーは、基本的にアフリカ系アメリカ人である。つまり、彼らの母語はアメリカ英語であって、スワヒリ語の話者ではない(少なくともスワヒリ語の母語話者ではない)。その意味で、アフリカ的な時間感覚を、スワヒリ語ネイティブと同じように持っているわけではない。ここで重要なのは、それにもかかわらず、ラッパーたちは、ヒップホップ文化を発達させる中で、自分たちの知的習慣を改変し、“be”という表現を獲得したということだ。

 彼らの達成は、習慣を書き換えることで想像力の創造性を発揮した事例として捉えられる。これは、存外に心揺さぶる話ではないだろうか。少なくとも、私はそう感じる。私たちは、習慣の井戸に入って生活しているのだが、時々は創造性を発揮し、思いもよらない新しい習慣を生み出すことができる――このプロセスを目の当たりにした上で、その変化がいかに劇的かつ巧みなものなのかを解剖して、他者の創造性を味わうことができる機会など、生きていてそう多くはないのだから。

ジョン・S・ムビディ『アフリカの宗教と哲学』法政大学出版局https://amzn.to/2WPsmCb

山下壮起『ヒップホップ・レザレクション』新教出版社https://amzn.to/2WRNR5w

クリストファー・ノーラン(1970-) 映画監督・プロデューサー・脚本家https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3

スティーブ・ジョブズ(1955-2011) 実業家https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96%E3%82%BA

ジョン・デューイ(1859-1952) 哲学者・教育学者・心理学者https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4

(*)この議論では、三つのことに注意する必要がある。①ムビディの本はかなり古い。それゆえ、現在も素朴にこの議論が妥当するかは、冷静に判断する必要がある。ムビディ自身、アフリカが近代化し、アフリカ人の感覚は変化していくだろうと指摘している。②ムビディは、スワヒリ語を例にしているが、様々な言語共同体がアフリカにはある。それゆえ、素朴に「アフリカ」へと一般化することは難しいだろう。③日本国内でも働き方(大企業型/地域型/残余型)や住む場所(都市部か地方か)で、生活形式が多いに異なるように、たとえ同じ言語共同体でも、素朴に一括りにすべきではない。


2020/04/30

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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