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ルイス・フロイスが日本に「あべこべ」を見たとき、どんな風に世界を見ていたか

(※この記事は2020/09/01に公開されたものを再編集しています。)

異様さを飼い慣らす

 文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、ルイス・フロイスが1598年に著した『日欧文化比較』のフランス語訳に、「異様を手なずける」という序文を書き下ろしている。なお、フロイスは、1532年生まれのイエズス会宣教師で、織田信長や豊臣秀吉に会見したことで知られる。

 レヴィ=ストロースは、フロイスの日本に関する観察や分析を、二つの異なる時代の記述と重ねた。彼が引き合いに出したのは、バジル・ホール・チェンバレンの『日本事物誌』(1890)の「あべこべ(topsy-turvydom)」という項目、そして、紀元前五世紀に古代ギリシアの歴史家ヘロドトスがエジプトについての文章である。

 三者の記述において共通しているのは、当時の彼らの文化にとって謎に包まれた文化に 接触し、それを理解しようとするとき、様々な事例を挙げながら観察対象が「あべこべ」であることを例証していくという手法だ。しかも、そのとき自分たちの文化とは真逆であるということを強調しながら、やや強引であってもともかく対称性を確認していくというスタイルをとるのだけれども、こうした対称性の思考は、異様さを手なずけ、馴染ませるための役割を果たしていたとレヴィ=ストロースは指摘した。

対称性の思考

 これだけ聞けば、「まぁそういうものか」と思うかもしれない。けれど、エジプト人は、あらゆる点で多文化とは正反対の習慣を持っているとヘロドトスが述べるとき、異文化と自文化の対称性を指摘する執念は、私たちが想像するよりずっと深い。

 女は市場へ出て商いをして男は家にいて機織りをする。機織りにしても多文化では横糸を下から上へ押し上げるのに、エジプトでは上から下へ押す。エジプトでは、小便を女性は立って行い、男性は座ってする。こんな風に、あれこれ執拗に列挙される。

 「彼らが列挙する違いは、つねに相反するものであるとは限らない。これらの違いの多くは小さなもので、単なる差異であったり、一方にあって他方にないものだったりする」(p. 106)。つまり、様々なことを無視してでも、対称性を確認しようとしているのだ。

異質さを確認することで、深い理解を放棄する

 共感しづらいもの、異質なものを出くわしたとき、「それが異質で理解しがたい」ということを確認する証拠を探すことがある。そういうとき、私たちは、それが何ものであるかを理解するというより、それが「あべこべ」であることを確認しようとする。わからないと思うものに異様さのラベルを 貼り、それを確証する特徴を集めることは、対象をそれ以上深く理解することの放棄につながりかねないのだ。

 私たちは、異文化との接触のような大きな事例を念頭に置くに及ばない。日々出会う馴染みのない人・物・事に対して、似たような仕方でしばしば接してしまうのが人間だと思いさえすればよい。私たちは、異質だと感じる出来事や人物に対して、「あべこべ」のラベルを貼りがちであり、それ以上深く理解する努力を簡単に怠る。自分が既に持っている対象のイメージから逸脱するようなものにまで、進んで目を凝らそうとすることは案外に難しい。

確証バイアス

 こうした話を聞いて、物慣れた読者は「確証バイアス(confirmation bias)」のことを思い出すに違いない。確証バイアスとは、自分の考えを裏付ける情報を探し、自分が好む説明を強化する事実だけを選択したり、すでに自分が真実だと思っていることに反するデータを黙殺したりする傾向のことを指している。

 例えば、「大阪の運転は荒い」と聞いて、半ばそれを信じた上で大阪に行くと、クラクションを鳴らしたり割り込んだりした運転者だけを覚えていることになり、お礼に手を振ってくれたりした運転者のことはすぐに忘れてしまうかもしれない(注1 )。あるいは、「やっぱ京都の観光客、増えとるなぁ」と聞くと、そう感じさせる情報だけが 選択的に採用されて、実際に増しているという認識を強くしてしまうことがありうる(注2 )。これが確証バイアスである。

ステレオタイプは、「結論 」の確証を目指している

 確証バイアスが強まるとき、私たちは都合のいいものだけを証拠として認め、別のものを証拠扱いせず、他のあらゆる見方を拒絶し、証拠の欠如すらも証拠だと考え始める。このことが教えてくれるのは、私たちは見たいものを見がちであり、「私のストーリーに回収できるものが、世界のすべてではない」と自覚するのは案外難しいということだ。

 そうした観点から冒頭の議論を振り返ると、レヴィ=ストロースが取り上げた異質なものを飼い慣らす「対称性の思考」は、人が確証バイアスに陥るときの典型的な態度の一つだと 言える。それを、ステレオタイプのように決めつけ的に対象に向き合う態度だと言い換えてもよい。

 前回取り上げたトム・ニコルズは、ステレオタイプ的な発想が批判されるべきなのは、それが「結論」であって、「仮説」ではないからだと述べている(『専門知はもう、いらないのか』79頁)。つまり、ステレオタイプ的な思考は、対象の冷静な観察や吟味を欠いており、「とにもかくにもそうだ」と決めつけており、それを譲るつもりがないことが問題なのだ。

 それに対して、「こうかもしれない」「こんな風に見えるが」といった仮説や予測......をベースにする探求的な姿勢を、 ニコルズは推奨しているようなのだが、そこにネガティヴ・ケイパビリティと呼んでよいものを見出すことはできるだろう。

 
参考文献

クロード・レヴィ=ストロース『月の裏側 :日本文化への視角』(「異様を手なずける」はこちらに収められている)

「異様を手なずける」は、この本に収められている。論旨 に合わせて、同論 文の オチについて本文では言及しなかった。レヴィ=ストロースは、この短い文章の終盤 において、対称性の思考を、偏見に 満ちていながらも、逆説的 な仕方で対象を同等 に扱うものであったと論じ、繊細な評価を与えている。


ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫

バジル・ホール・チェンバレン『日本事物誌1』東洋文庫(Kindleあり)

トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか』


注1 ブ ランド 総合研究所 の調 査によると、「交通安全・交通マナ ーに 悩んでいる」と答えた人の47 都道府県ランキングで、大阪府は40 位だった。

注2 京都を訪れる観光者は、2008 年に5000 万人を2008 年に突破した。ピークは2015 年の5600 万人であり、2018 年はやや少なく5275 万人ほどである。この辺りの「観光公害」「観光過剰」について関心があれば、中井治郎『パンクする京都:オーバーツーリズムと戦う観光都市』星海社新書を参照。新型コロナウィルスの影響がある以前は、「京都の観光客が増えている」というフレーズを時候の挨拶のように頻繁に聞いた。


クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)

ルイス・フロイス(1532-1597)

バジル・ホール・チェンバレン(1850-1935)

ヘロドトス (生没年不詳, 古代ギリシア)


2020/09/01

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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