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2020年の春、なぜ恥や誇りや怒りについて考えた方がいいのか――フランシス・フクヤマ『アイデンティティ』レビュー②


(※この記事は2020/05/20に公開されたものを再編集しています。)


なぜアイデンティティが決定的な問題なのか

 フランシス・フクヤマは、『アイデンティティ:尊厳の要求と憤りの政治』において「テューモス(気概)」という概念を集中的に検討している。ポピュリズム、あるいは分断の時代を捉える上で避けて通れない「アイデンティティ」という概念を理解する上で、重要だと考えたからだ。

 フクヤマは、その問題意識をこう要約している。

アイデンティティはテューモスに根ざしており、テューモスは誇り、恥じ、怒りの感覚を通じて感情として経験される。……このせいで理性的な議論や熟慮が阻まれることがある。他方で、国民が何らかのかたちで理性とは別の次元で、誇りと愛国心の感情を通じて立憲政治と人間の平等の理念に愛着を覚えていなければ、民主主義社会は存続不可能だ。(p.182)

フクヤマは、テューモスの危うさを強調しながら、しかし、それなくしてデモクラシーを維持できないと考える。つまり、気概とは、人間の不可避かつ両義的な本性を象徴するものなのだ。

 この観点に立つ彼が『アイデンティティ』において採用するのは、ある種の歴史的遡行である。すなわち、今あるアイデンティティ概念の発展を歴史的に追跡し、今の社会経済的状況を把握させている私たちの「認識の枠組み」に関する系図をフクヤマは描こうとする。

プラトンと「気概」

 フクヤマの言う「テューモス」概念は、直接にはプラトンの対話篇『国家』に由来している。そこで語られるのは、人間の魂には、「理性」と「欲望」だけでなく、自己を頼みにし信じるという側面があるということであり、それが「気概」と呼ばれる。いわば、知的な判断を背負う「上半身」、自身を低きへと押し流しかねない「下半身」だけでなく、そのどちらにも還元できない、誇りや恥の感覚に関わる自己の部分があるのだ。

 ただし、プラトン=ソクラテスの考えでは、テューモスは、戦士や守護者に限定された心の働きであり、万人に開かれたものではない。先回りするなら、この感覚が普遍化され、いくつかの観点が付け加えられた先に、現代の「アイデンティティ」概念があるとフクヤマは考えた。

西洋哲学における「尊厳」の歴史

 以降の顛末に関するフクヤマ自身の筆跡を、ごくごく単純化してたどっておこう(pp.132-3)。

 尊厳の承認を求める感覚が普遍化されたのは、「人間はみな道徳的選択の能力を持つ」としたキリスト教の伝統においてだった。プロテスタンティズムにより、「この能力が個々の人間の内奥にある」と考えられるようになり、「カントによって合理的な道徳的法則というかたちで世俗化された」。

 さらに、ルソーを経由して、「内なる道徳的自己」は、社会化の中で抑圧された感情と個人的な経験を含んでおり、こうした感覚を押し留めるのではなく、むしろ繊細に感じ取ることが道徳的に求められるようになった。

 かくして尊厳の問題は、“本当の自分”、“本物の内なる声”を手にし、回復するという各人の可能性を社会が承認し、手助けするという問題へと変わっていく。

中間層の不安

 この先にあるのは、適切な自己受容でも、自己との妥当な向き合いの姿勢でもなく、セラピーへ殺到する社会であり、ナルシシズムやミーイズムとして問題化された自己像だとひとまず言うことができよう。(pp.137-44)

 いずれも、「本当の自分」なるものが手元にないことの不安に由来している。つまり、自分の尊厳を十分に実現できていないか、自分のあり方を他者や社会に承認されていないか、その両方であることの不安定性を背景としている。

 近代社会において特徴的なのは、いわゆるマイノリティや「切羽詰まった貧困者」だけではなく、「ほかの集団との関係で自分たちの地位を失いつつあると感じている」マジョリティや中間層が、強い不安や危機感を抱き、それが尊厳の喪失や恥の感覚として現れている、という事態である(p.123)。

安心のテクノロジーとしてのイデオロギー

 強く不安が感じられたとき、もっとも手っ取り早いのが、社会の複雑性を減らし、特定の敵を名指してくれる「イデオロギー」である。

 様々なタイプの原理主義――例えば、ミソジニー、ナショナリズム、カルト、陰謀論、疑似科学、技術楽観主義、既得権益批判など――は、なぜ人が孤独と混乱を感じているかを説明し、その不幸な状況を作り上げたのは外集団のせいだと指弾し、不安の原因を明確化してくれる。(cf. p.108)

 一言で言うなら、イデオロギーとは、フェイクと思い込みによって認知上の複雑性を減らし、人に安心をもたらすテクノロジーなのだ。そして、イデオロギーが私たちに安定性を与えるのは、それが巧みに「テューモス」へ訴えかけ、感じられていた屈辱を憤りへと変換し、敵へと投げつけることを許すからだ。

 右派左派問わず、そして、世界の地域を問わず、何らかのポピュリズムが流行している現在、こうした分析を可能にするフランシス・フクヤマの議論は、無視できない魅力を持っている。

コロナ時代の私たち

 フクヤマが念頭に置いているのは、政治的状況である。しかし、パンデミックにおいて様々な不安を煽られ、人との物理的な距離ができたがゆえに「自己」と否応なく向き合う日々を私たちは生きている。何を信じればいいかわからず、誰かを頼りたくても近寄れず、これまで通りの仕事や生活ができなくなっている状況で、「自分は尊重されている」と感じること、自分自身に誇りを抱くことは、相当に困難だろう。

 そのような瞬間は、少なくとも、人の心の一番柔らかいところ――テューモス――のことを考える機会としては、残念ながら好機であると言えなくもない。恥辱や誇りの感情を生じさせ、尊厳の「気概」という心の部分こそ、今日決定的な問題であるというフクヤマの提案が、遠くの誰かの話でも、対立陣営の話でもなく、自分自身の問題として実存的に刺さるものにもなっているからだ。


フランシス・フクヤマ『アイデンティティ:尊厳の欲求と憤りの政治』朝日新聞出版
https://amzn.to/3aTQNl9

先月の書評でもアイデンティティの問題を扱った。こちらも参照されたい。

市場経済はアイデンティティを利用する――アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』レビュー①

誰もが疎外を感じる時代のアイデンティ――アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』レビュー②

フランシス・フクヤマ(Francis Yoshihiro Fukuyama, 1952-)

歴史の終わり


2020/05/20

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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