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授業研究は子ども理解から-早稲田大学教師教育研究所のセミナーから-

年末の教師教育研究所のセミナーは、非常に有意義なものでした。

セミナーでは、まず提案者が、「総合的な学習の時間」での話し合いの1時間の克明な授業記録と子どもの振り返りを紹介します。それをもとに参加者が数人のグループに分かれて議論しました。
それが午前11時から17時までで、お昼に食事をしながら授業記録を読みましたので、実質はぶっ通しでした。

テーマは問題解決学習についてですが、実際には、「子どもをどう見るか」に議論が終始していたように思います。
つまりは、問題解決学習のためには、子どもをどう見るか、がもっとも重要だということになるかと考えます。

授業や議論の具体的な内容については紹介できませんので、私の思ったところを紹介していきます。

1 子どもを見るということ

私たちのグループでは、話し合いの中でのある子どもの反応が気になりました。話の流れからすると断言してもよいことを躊躇しています。
他のグループも、その子が気になったようで、提案者(授業者)に尋ねます。
それから、その子の友達関係だけでなく家庭環境についても提案者から情報が提供され(もちろん匿名です)、それをもとに子どもの発言を読み解いていきます。
提案者も、そうした個々の子どもたちをしっかり理解していることが感じられました。

総合的な学習の時間ですから、到達すべき目標があるわけでもありません。だから、個々の子どもの思いや願いが重要にもなってきます。それを踏まえることで、次からの学習の展開も変わってくるでしょう。
セミナー参加者は、誰もが子ども理解を大事だと考えているようで、結局は、気になった数人の子どもについて、「なぜ、この子どもは、このように考えたのか」の検討に、ほとんどの時間を費やしました。

おそらく中高では、ここまで子どもを理解に重点をおいての授業研究はないでしょう。しかし、小学校ではそれが可能です。

教育哲学者の上田薫は、次のように指摘しています。

 教材研究の部会というのに出席してみたら、参加者がとうとうと論じ合うなかで、「こういう子にはこんな教材が」とか「こんな子にはこの教育内容はむりだ」とかいう、子どもをいれた話しあいがついに一度も出てこなかったのにびっくりしたことがある。この人たちはいったいなにをしている人たちなのだろうか。もしここにいるのがみんな教師だというなら、化け物の集まりではないかと私は思ったのであった。教材研究というのはひとりひとりの子どもにやるのが教育の正道だと思う。
上田薫『人間のための教育』国土社、1990年

また、柴田義松は「教育学の中心的問題は、子どもを知ることにあるといってもよいように思う」と言い、次のように指摘します。

 ところで、実際の教育活動をうまくすすめるためには、教材と子どもと、どちらをつかむことの方がより大切かといえば、これは、子どもを把握することの方が重要である。教える内容にくらべたら、子ども=人間の方が、はるかに複雑で、つかみにくい厄介なものである。教育活動の失敗は、たいていは、この子どもを正しく把握しないところからくるものである。柴田義松『柴田義松教育著作集8 学習集団論』学文社、2010年

このセミナーでは、こうした一人一人の子どもを理解していくことがありました。

2 無言の子どもと子どもの無言

授業記録を見ていくと、一時間の授業ですから、まったく発言のなかった子どももいました。また発言しても一言二言という子どももいます。
しかし、その子どもたちも「振り返り」には、「誰々の意見はどうだ」というように、友達の発言を聞いていて、自分なりの考えをもっています。
つまりは授業に参加しているのです。

そうした意味でも、授業の振り返りがあったのは、よかったと思います。
発言をしていない子どもでも、授業にどのように参加しているのかは、これからの主体的・対話的で深い学びのある授業には、欠かせない視点ではないでしょうか。

また、話し合いの司会者は子どもで、教師は傍らで助言をするだけです。
この話し合いでは、1分ほど発言がまったく無かったことが2回ありました。
これについて、中高の先生からは、驚きの声がありました。決して否定的な意見ではありませんが、中高では無いとのことです。
授業者は、子どもたちが深く考えているようなので、あえてそのまま無言のままにしたと言います。

これについては、国語教育の大村はまも石田佐久馬も、無言は子どもが考えている時間だから、無言をおそれてはいけない、むしろ大事にすべきだと言います。
倉澤栄吉も次のように述べています。

 われわれは現世的な存在ですから、問いを発して子どもがうんともすんとも言ってくれないと、なんとなく空白のむごさというものを感じて、やりきれなくなってしまう。しようがないから、その空白の恐れを埋めるためにつぶやいてみたり、あるいは「グループで相談してごらん」と言って逃げたり、「もう一遍言うよ」と押しつけたりするわけです。これらは全部空白を敵視したためです。しかし、黙っている空白というものは、実は大変大事な時間であるかもしれません。子どもは何も言ってくれない、というのは何かを考えているからです。そこを見破るだけの力を持ちたいものです。
倉澤栄吉『授業に学ぶ』国土社、1987年

話し合いや授業の中での、子どもの無言、無言の子どもをどう考えるかも、授業研究では重要な視点ではないでしょうか。

3 総合的な学習の時間は楽しい

子どもの振り返りを読んでいると、総合的な学習の時間が楽しい、という子どもがいました。授業者に聞くと、教科の学習は苦手としている子どもとのことです。
それを聞いて中野重人先生の次の言葉を思い出しました。

 それを僕の言葉で言えば、目標に揃える教育である。揃う子どもはいいが、揃わない子どもが困る。学校は、これだけを非常に重視するところに問題があるのではないだろうか。ここで元気が出ない子どもは、もう行かない。教室に入らない。そういう子どもが、いまわんさと出てきている。(中略)
 この子どもたちを救うには、各教科の教育をいくら強調してもだめだと思う。ここまで来い来いの学校では、この子どもたちは救えない。お前らが元気が出るものもあるんだよ、お前らが元気が出るものは何だというものを学校の中の一部に取り入れなければいけない。生活科は、それに非常に近いと思うが、今度の生活科の延長線上にある総合というのは、そういうことを一つのねらいとする。ここまで来い来いではなく、どの子にもやる気と自身を持たせるようなことが学校でできないのか。
目賀田八郎, 中野重人『至論・駁論 総合的な学習は学力崩壊か・学校再生か』東洋館出版社、2000年

具体的な文部科学省等の文献には書かれてはいませんが、総合的な学習の時間の背景には、学校で元気の出ない子どもを救いたい、というのがありました。
中野先生は、お酒の席でも、日本の子どもたちが元気が出るようにしたい、とよくおっしゃっていました。
中野先生も、この振り返りを読まれると、きっと喜ばれることと思います。
私もうれしく思いました。

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