評価ってなんだろう
実は評価関係の書籍は売れません。今までの経験ですが、売れたのは「新学力観」がでたときの解説書くらいで、「絶対評価」になったときも期待しましたが、ほとんど売れませんでした。国研がまとめた「観点別評価」についての資料は、そこそこ売れましたが、それでも売れたというレベルではありません。
やはり、教師は評価について関心がないのだろうと感じていました。
でも、それでよいのだろうか、と考えています。
SNS等で流れてくる評価についてのコメントなどを見ていても疑問に思うこともよくあります。「評価は不要だ」という教師のつぶやきもありました。
とある研究会の協議会で、指導案に評価欄がないことが指摘されたことがありましたが、よく見ると結構あります。
また、教師が保護者ともめる一番の原因が教師の子どもへの評価だとも聞きました。悪い評価をすると、「うちの子をちゃんと見ていない」と。
そこで、評価について考えてみようと思いましたが、私もそれほど評価関係の書籍を編集したわけでも、詳しく学んだわけでもありません。そこで、とりあえず思いつくところからはじめたいと思います。
そもそも評価とは
実は、私たちは、日々、様々な場面で評価をしています。
料理の美味しい、まずいも評価です。
本を読んで、テレビやネットで動画を見て、面白い、面白くないと評価しています。
「あの人はすばらしい」というのも評価です。「自分は陰キャだ」というのは自己評価ですね。
仕事でもスポーツの場面でも、「あいつは今日はやる気があるな」などと言うこともよくありますね。これは主体性の評価とも言えます。主体性の評価は難しいですが、実は意識せずに日常でよく行っているんですね。
教育の文脈では、「褒める」「叱る」も評価の表れとも言えます。行動をよいと評価して伝えることが「褒める」ことで、悪い行動と評価して伝えることが「叱る」ことです。
それでは、なぜ評価をしているのかというと、その多くは、何かを判断して、自分の生活をよりよくするためなんだと思います。
また、自分の立ち位置を確認するという意味もあるでしょう。目的地に行くのに、今、どこにいて、あとどれくらいかかるのか、それがわかるためということでもあります。ダイエットに置き換えて考えると、5Kg痩せることが目的地だとすると、今は3Kgで、あと2Kgが必要だとわかるということですね。
だから学習の評価については、ダイエットのための体重測定や健康診断のようなものだと考えます。
体重を量るというのはダイエットにおける評価です。評価が不要という人は、体重を量らないでダイエットをするようなものです。
私くらいの年齢になると、肝臓の数値、血糖値、尿酸値など、いろいろと悪いところが出てきます。それをもとに、食生活を変えたり、運動を増やしたり、それで足りない場合は、薬を処方されたり、と改善するための対応をします。
決して、人と比較したり、「不健康」と烙印を押されるために健康診断をするわけではありません。
同様に学習でも、苦手なところを発見し、それを改善する手立てを考えることや、教師の指導法へフィードバックすることに評価を活かすようにすることが大事です。これが形成的評価の基本的な考え方です。
次回には、この形成的評価の考え方を中心に考えてみたいと思います。
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