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周縁化(marginalized)と自分育てと学び

人権やフェミニズムなどの本で「周縁化」という言葉の登場率が年々高くなっている。
元の英語の「marginalized」を辞書(英辞郎)で引くと「周縁化」のほかに「社会の主流から取り残された、社会的に無視された」などと説明されている。

語源の「margin / マージン」は「余白」といった意味。
紙なら中心に文章や絵があって、その周り、端っこ。仲介手数料などをマージンと呼ぶのも、サービス本体の価格に対して、その周りにくっついているものだから。

でも、英語の「marginalized」は、日本語では感覚として つかみにくいと思う。なぜかというと、主語「I(アイ)」と「わたし」のあり方が大きく異なるから。

日本語の「わたし」は相対的主語。
相手や周囲の状況によって変わる。
例えば、成人の1人称は、公の場では「わたし」、
私的な関係では「ぼく」「おれ」「あたし」「わし」、または自分の名前の呼び捨てやちゃん付けなど。
周りが先にあり、その中に自分がいる。周りによって自分を規定する。

英語の「I」は絶対的主語。王様の前でも「I」は「I」。
すべての起点で、そこから自分の世界が始まる。
住所を番地から始めるのがいい例。

「marginalized」とは、自分の世界の起点が「I」から別の何かに代わり、
そいつによって「I」は後回しにされて端に追いやられていくこと。
絶対的主語には存在の危機と言っていい。

この感覚は日本語にはあまりない気がする。
日本語の「わたし」にはデフォルトで周囲が含まれている。

「I」文化圏の人は marginalized されると、存在の危機だから「やだ!」と感じ、元いた中心に戻れるように主張する。
これが欧米の権利の感覚。
自分の世界の中心に「I」がいること。それが保障されること。

自分育て(子育ても)の究極の目的は、この「自分の世界の中心に「I」がいる」感覚を育てるってことなのだと思う。
そのために必要な学びは、自分の内側から知りたいと思うことに他ならない。自分の外側から指示され自分は興味が持てない内容ではいけない。

#まなびデザイン #好奇心 #学び #自由研究 #自分軸で学ぶ

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