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大西つねき氏の記者会見を見て-死生観のタブーを疑うこと-

今日は昨夜の大西つねき氏の記者会見生中継を見ての感想を書きたいと思います。
(動画を見たことがない方は以下の動画になります)


この件が世間で取り上げられ、私の周りの方々が注目する以前は私は大西氏を詳しく知りませんでしたし、元々の支持者ではありません。

しかし先ず結論から述べますと、少なくとも今回の騒動においては、私は大西氏を支持する立場になります。

記者会見生中継と、問題となった「命の選別」発言の動画も見ましたが、内容的には多くの点で同意できます。

今の日本の真理を土台としていない価値観・文化を、より真理を土台とする価値観・文化へと変えていこうとしていると思いました。

問題となった発言の意図を正しく理解するのであれば、多くの方は大西氏の主張を理解できると思います。

私は生まれ持った特異性からくる独自の見解で、死生観も捉えてきました。
それは多くの日本人の死生観とは、同じではありません。

死は恐いもの。
死んだら終わり。
避けるべきもの。
よくないもの。

といった間違った教育がされていると感じてきました。

大西氏も問題動画の中で「死んだら終わりという真理も、もしかしたら違うかもしれない」と発言していましたが、その通りだと思います。

悪魔は(創造論・進化論の記事でも書きましたが)、世界は偶然出来て、人の人生も偶然、そして、人の作る社会が(人間中心的・偽りの社会)世界の全てであると嘘をついてきました。

その社会(偽りの土台や制度・価値観)の中でだけ、どう生きるかを考えるときに、人は死に対する恐れを克服できないので、死を避けるようになるのです。

そしてそのような教育の結果、人の尊厳よりも、不自然な形でも少しでも命を長く延ばすことが正しいことで、愛のある行為であるかのように洗脳してきていると思います。

しかし世界を創ったのは、全ての愛の根源である、創造主なる神であると私は信じています。人の人生もいのちも、偽りの小さな世界の中に押しとどめ続けることはできないのです。

私は物心ついた時から死を恐い、嫌だ、避けたいと強く思ったことは一度もありません。もちろん幼い時や若い時は多少なり世の中の影響も受け、死に対する悪いイメージに影響は受けていたとは思います。

しかし強く思い、継続して抱き続けることはありませんでした。

そして今では死に対する恐れはありません。

なので、避けたいとも、逃げたいとも思いません。

どれほど健康な人であっても、肉体は120才くらいまでしか生きることはできません。私は自分が100%死ぬことを正面から見つめ、その上でその先を見据えて生きています。

私にとっての死とは小学校を卒業したら中学校に行くのと似た感覚といえるかもしれません。卒業は別れや変化の季節で、悲しさも感じるでしょう。
しかし、その後は新しい出会いとまた成長の季節が始まります。

期待と喜びの方が勝るのが本来の天への旅立ちであると思います。

聖書には以下のように書かれています。

「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされているみことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし神に感謝すべきです。神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」
1コリント15:54-57

「しかし私たちは私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」
ローマ8:37

上記の言葉は、経験できる真理です。

死に勝利した人の葬儀はこの世の悲しみや暗闇の失望は一切付け入る隙がなく、天国の喜びと栄光で満ちます。

また神と親しく地上での人生を歩んだ人に対して、神は天への迎えの時も慈しみと恵みをもって伝えてくれることもあるのです。

そのような中にあって死を恐れる必要はなくなります。

そして死んで「いのち」が終わるわけではない、「永遠のいのち」が与えられていると私は信じているので、この地上での人生は永遠という線を決める有限の点でしかないと思っています。

それは決して「死んで天国に行くから、この世は私の故郷ではない。早く死んで天国に行きたい」という思想とも違います。

この世においては、神とますます親密になり、最後まで従順であり、最善を尽くし、最大限に愛と知恵において成長し、世界を本来あるべき姿(天国・神の国)に近づけ、悪魔に属する全ての文化・価値観・制度を可能な限り廃止し、真理を常識にし、影響力も最大化し、家族や友と人生の歩みを楽しみ、健康で幸せに長生きしたいと思っています。

しかしそれは永遠を見据えているからこそ、恐れなく、自由に、大胆にそれをしたいと心から思えるのです。

私はイエス・キリストに人生を明け渡してから、完全に「死」に勝利したと思っています。

悪魔の作る嘘の世界に対して死ぬことで、神の創造した真の世界で神の力で生きる術を知ったのです。

神の国は今も地上にあり、永遠の世界においても天にある国です。

地上において神の国の中で生きる時に、悪魔の国を滅ぼすことが出来るのです。

多くの方を看取ってきた、私の知り合いの有名なホスピス医の医師が言っていた言葉に

「人は生きてきたように死んで行く」
という言葉がありました。

死とはある意味一つの結果であると思います。
多くの場合は「どう生きてきたか」が現れるのが死に方だと思います。
(もちろんそれが全てではないと思います)

世の流れは、神が作った世界の原理・原則である「種まきと刈り取りの法則」を歪めて、罪の結果を刈り取る必要はないと嘘をつきます。

そして表面的な偽善の慰めや根本を解決しない対処法を持ってきます。
それらが気休めにでもなればいいのですが、根本を更に悪化する目的があることが多いように思えます。

私は不自然な形での延命治療や薬漬けにする医療にも、光や愛をあまり感じたことがありません。
もちろん現場の医師や看護師の中には優しさを感じる方も多くいます。
しかし教えられた知識が正しくない土台に根差している場合もあり、実践方法には違和感を感じてきました。本当に悲しいすれ違いであり、分断であり、悪魔の策略であると思います。

聖書には以下のように書かれています。

罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ローマ6:20〜23

悪魔の作った社会システムの中で「永遠のいのち」の溢れる最後を迎えることは出来ません。

神の作った世界に戻り、本来の創造の目的と秩序の中で最後を迎える時に、人類は死を克服するのだと思います。

悪魔の国を出て、神の国の中で本質的にどう生きるのかを全ての人が追求して生きるときに、プロセスと結果においても大いなる改善が起き、介護の問題や、医療の問題の多くは解決に向かうと思います。

もちろんこの問題も他の多くの要素が関係するので、なかなか改革は出来ないのではないか、難しい問題だと人間的には思うかもしれません。しかし、神には不可能はないと信じています。

最後に、大西氏の主張を正しく理解した上で、メディアの報道やバッシング、見せ方や世論誘導を見た時に、皆さんはどう思いますか。

メインストリームだけを信頼しますか。


2020年、今が日本の時です。


今日の見出し画像  (真鍋島の山頂付近から咲き誇る花々や瀬戸内海をパシャリ)




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