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一番の資本は、「自分の可能性を信じられること」

今日は、こんな記事から。

私は幸いにして、大学まで進学させてもらえる環境だったし、
小学生の頃から習い事もさせてもらったり、家にも本がたくさんあったり、比較的「文化資本」に恵まれた環境で育ててもらえていました。
そして、これが誰にとっても当たり前のものではないんだ、ということに気づかされたのは、恥ずかしながらずいぶん後のことです。

文化資本における「格差」がなにより苛烈なのは、
ある意味で非常に「目に見えやすい」金銭的格差とは違って、
「持つ側」も、「持たざる側」も、そこに格差があることにすら気づかないケースが非常に多い、ということなのではないか、と私も切に感じます。


そして、文中の下記の記述には特に頷く部分が多くて。

褒められずに育つと、自分の能力や可能性を信じることができなくなる。そうして、社会で生きていくための自己肯定感にさえも、格差が生まれてしまう。

「自分が努力すれば、解決できるんだという実感がある人と、やったって上手くいかないと思っている人だと、努力するかどうかもは違ってきます。長期的に見ると、目に見える差になっていくのです」

筆者も経験したように、貧困家庭の子どもは様々な場面で「諦め」を経験する。制服や学習道具が買えない、習い事はもちろん運動部などもお金がないという理由でさせてもらえない。

そして中には行きたい高校も、経済的な理由で諦めざるを得なかったり、大学進学などの進路も、親に反対されたり、学費が工面できずに断念することもある。そればかりか、自ら選択肢として考えられなくなっていく。

生まれによって好きなことを我慢し続けると、自分は幸せになってはいけない、どうせなれない、という悲観的な考えに陥ることもあるのだ。

一時期、高校生や大学生のキャリアと向き合う仕事をしてきた中で、
なにより感じたのは、
人が育っていく上での一番の資本は、金銭でも教養でもなく、
「自分自身の可能性を信じられるかどうか」
なのではないか、ということでした。

「どうせやっても成功しない」という価値観を植え付けられた人は、やがて何かに挑戦する、努力することすらしようとしなくなる。
そうすると、成長・向上といったものとはますます縁遠くなって、いよいよ狭隘な袋小路に自らはまりこんでいってしまう。


厳密に言えば、経済的に苦しくても、まだ全く方法がないわけではなくて、なんとか奨学金を見つけて進学するとか、可能性の扉はわずかながらにでも開かれているわけです。
でも、その「可能性を見つける」という意欲を削がれている状態では、どんなに目の前に選択肢があったとしても、それを見つけることはできないし、仮に見つけたとしても、「どうせ無理だから」と、自分からその選択肢を拒絶すらしてしまうかもしれない。


キャリアに関する仕事から離れてからはもう丸4年近く経ちますが、
ときどき、当時接した高校生や大学生のことを思い出します。
彼らから多くのことを教えられたし、あまりに「世の中」に対して無知だった自分の未熟さを突きつけられた。
とても刺激に満ちた日々だったと今でも思うし、
大人のはしくれとして、彼らのために何かできることはないだろうか。そう今でもときどき考えています。

ひとりひとり異なる状況を持った彼らに対し、
何か力になりたいと思っても、当時の自分は(そして今の自分も)まだまだ無力すぎたし、
未だに、ある程度恵まれた環境で育った自分が、こんなことを口に出す権利があるのか、知らず知らずのうちに「上から目線」になってしまってやいないか、と怖くなってしまう瞬間も確かにあって。

でも、まずは何より自分自身が自分の可能性を肯定してあげること、
こうありたい、という姿を臆せず口に出して、その言葉をちゃんと自分自身で背負って、前に進んでいかないといけないから。
noteは、そんな弱い自分への決意表明、自分自身を叱咤し鼓舞する場でもあるなあと思います。

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