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「不便」をどう再定義するか。

今日は、この記事を読んで感じたことを。

今の社会の大きな課題として、自分の仕事、自分の住んでいる街、自分の住んでいる家が自分ごとになっていない人が多いことがあるような気がしている。個人の時代とすごく言われるようになっているにも関わらず、他人の物語や、社会の物語の中で生きる人は逆に増えているような気がする。それが世の中の情報と自分との比較に繋がり、孤独感を感じたり、自己肯定感が下がってしまう若者を生んでしまっているのかもしれない。物質的には恵まれているため「悲しく」はない、だけど「寂しい」、と感じている20代が多いな、というのが僕が感じている実感だ。

これは私もすごく実感することで、
自分自身が田舎暮らしを選んだ大きな理由のひとつでもあります。

「自分がつくりたいと思った暮らし」を中心に置いて、
それを実現していくために、仕事や住まい、コミュニティなどの課題をひとつずつ解決していく。
3年経って、少しずつそれは実現してきているように感じるし、
広い意味での「暮らし」、たとえば余暇の時間みたいなものも、この土地で自分でデザインしていけそうな、一個人としてはそんな実感もあって。

とはいえ、それを「まちの機能」として持たせようと思うと、
小杉湯さんみたいに「意図を持った場所」が増えてきて、多くの人がそこに気軽にアクセスできることが重要なのだと思います。


そう考えたときに、
そもそも都会と比べてそれほどコンパクトでない、
様々な機能・意図を持たせうる場所はあるけれど、
利用者の絶対数もそれほどない、かつそれぞれの物理的な距離が離れている田舎で、そういった環境をどうデザインするか。

たとえば、私が今住んでいる場所には、都会の銭湯並の値段で、天然温泉に入れる環境は普通にあるのですが、
小杉湯のように、銭湯という「コモンスペース」が、人々の社交場として機能するかといったら、正直そこまでいくイメージは全くなくて。
徒歩圏内どころか、ある程度人のいる集落は、一番近くても車で15分離れたところにしかないし、
そもそも商圏人口が圧倒的に小さい。

ほかにも、大きめのスーパーに行こうと思ったら車で2,30分はかかるし、
ユニクロとかニトリとかまでいくと、1時間車を走らせないと、ない。
要は「不便」なんですよね。

ただ、こうも思うんです。
不便であることを避けようとすることが、「自分の暮らしを自分ごとにする」ことにつながるのか?

近くにスーパーがある。
職場が近い。
そういう理由で暮らす場所・住まいを選ぶのもいいけれど、
それって「暮らしを自分ごとにする」ことになるのでしょうか?
そうやって選んだ街・暮らし方は、何を妥協にして成り立っているのか?


たとえば、温泉まで向かう15分の時間は、
仕事モードからOFFモードに頭を切り替える、
ちょうどいい転換の時間になるかもしれない。

基本的に誰とも会わない田舎の温泉は、
コミュニケーションの場にはならないかもしれないけれど、
体はリラックスさせながらも、じっくり自分の頭を整理する、黙考の場としては最適かもしれない。

都会のように、多くの人が「本拠」を置いて日々たくさんの出会いが生まれる、そんな場所にはならないかもしれないけれど、
そんな場所だから過ごしてみたい、暮らしてみたい、という人は、本当に誰もいないのか。

「不便だから」そういって思考をやめてしまうのではなく、
その「不便」が求められる状況も、もしかしたらあるかもしれない。
そんな発想で、この土地での暮らしを見つめ直していくと、もっといろいろな可能性が見えてくるかもしれない。
今、そんなことを感じています。

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