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「スクールカースト」を乗り越えるために、必要だったもの。

note毎日投稿をはじめてもうすぐ1ヶ月。
30分で書くのはどっちみち無理だ、ということに気づいてしまったので、
いっそ「60分で書く文章」にしてしまおうかな、と思っていますw

今日は、読んでて気になった記事から。

シャバの世界には「ひとの能力や資質を測る物差し=基準」がたくさんあるように思います。
(中略)
 しかし、子どもの時分、とりわけ思春期、具体的に中高生というものは、極めて限られた「単一の物差し」の錯覚に苦しめられ、今を生きているような気がします。

これは本当にそうだなあ、と思います。

記事中では、その「単一の物差し」の具体例は「学力」しか挙げられていませんが、これって学力に限らない話だと思うんですよね。
いわゆる「スクールカースト」というやつを構成するいくつかの限定された要素があって、それに苦しめられている子どもって、結構多い気がする。

私の場合、それは「運動」でした。


私は小中学生時代、勉強はかなりできる方だったものの、とにかく体育が壊滅的に苦手で。

テストの点数って、(学校にもよるのかもしれませんが)私の学校では特に掲示されたりとかはなかったので、みんななんとなく「誰が成績いい(悪い)」は知っていても、明確な順位付け、序列化まではされなかった。

ところが運動って、どこの学校でもほぼ例外なく、日常的にその序列がはっきりと明らかにされますよね。

たとえば、
運動会のかけっこの順位。
ドッジボールで、誰が一番最初にアウトになるか。
バレーボールで、誰が一番多くレシーブをミスしたか。

学校の体育って、その教育的性質上、団体競技がかなり多いので、
運動苦手な自分にとっては、自分がミスしているという事実に加えて、
「誰かの足を常に引っ張り続けている」感覚を常に持たされて、
ただただ苦痛でしかなかった。

唯一苦しくなかったのは、水泳とバドミントンくらいでしょうか。
(水泳は陸の上でやる競技じゃない&個人競技、バドミントンは球技じゃない&最大でもペアにしかならない、という点で)
一方で、個人競技だけど卓球は球技だからからっきしダメだったし、長距離走とかは「最下位である」という事実が如実につきつけられるから嫌だったなあ…とまあこのように、およそ体育にいい思い出など皆無なわけです。
(特にバレーボールには、本当に嫌な思い出しかない・・・!)


運動ができない、見てくれもよくない、やんちゃもしない、陰キャっぽい。
スクールカースト的には、まあ下のほうにいく条件をばっちり満たしてたと思うし、
おおよそ学校のヒエラルキーの中で評価される(自己肯定感を育める)要素が思いつかないのですが、
それでも、ひねくれたりやさぐれたりせずにすんだのはなぜだったのか?


ひとつは、幸いにも「生徒会役員」とか「部長」みたいな『役職』に就くことができた(=スクールカーストの序列とは違うところに身をおく隙があった)ことだと思っていて。
これに関しては、やんちゃもせずマジメしてたのが幸いしたのと、単純に運がよかった(勉強もそこそこできて、運動神経もよい、人気もある、みたいな人はいたので、そういう人に名乗りを上げられてたら勝てなかった)

そしてもうひとつ大事だったのは、自分自身が無自覚ながらも「複数のコミュニティ」を持っていた(=「複数の物差し」を持てる環境にいた)からなんじゃないか?

今振り返って考えると、そう感じています。


小学校のときは、習い事で水泳とピアノをやっていて、
どちらも決して上手くはなかったけど、イヤイヤやらされていたわけではないし、わずかながらも少しずつ成長・上達していける実感があった。
中学のときは、塾に通っていて、学校ではなかなか評価されない「学力」という面で真剣勝負し、評価される、というのがすごく楽しかった。

それと、なんかよくわかんないけど、課外活動的なものにもいろいろ参加していた記憶があって。

小学校のときには、「少年少女発明クラブ」という、ひたすらいろいろ工作したりする課外活動になぜか参加してたり(経緯はまったく覚えてないし、そもそも不器用だったので工作はあまり得意ではなかった…!)、

たぶん中学校のときだったと思うけど、「子どもモニター」っていう、市内から何人か同年代の子どもが集まってなんやかんやする、という活動になぜか参加していたり(たぶん学校で「他にやってくれそうな人が誰もいないから頼む」みたいな感じで推薦されたとかだったと思う)。


小中学校くらいって、どうしても行動範囲が狭いので、
同じ学校・同じクラスっていうヒエラルキーの中がすべてだ、ってなってしまいがちだと思うんです。

ただ、私の場合はこうやって学校以外の場、コミュニティというのがあったことで、単一のコミュニティの中で狭窄的にならずにすんだと思うし、
学校とは違う尺度で評価される場、
あるいは課外活動という純粋に利害関係のない(評価、成績をつけられることがない)場にも身をおいていたからこそ、
「得意なことは得意だし、苦手なことは苦手」という割り切り、いい意味での「鈍感力」は身についたんじゃないかなーと。


おかげで、高校以降も「スクールカースト」的なことに苦しめられた記憶はほとんどありません。かえってそういうのに鈍感すぎたかもしれない。笑
(高校は進学校で、良くも悪くも「個人主義」だし、そもそも変わった人が多かったのも幸いしたと思う)


習い事とか塾とか課外活動とか、そういうのに連れ出してもらえたのは、
これはひとえに親の影響が大きくて、とにかく感謝しかないのですが、
これは親自身の育ってきた環境(文化資本)にもよるし、
経済面も正直無視できない部分ではあるので、なんとも難しいところ。

もし、スクールカーストで苦しむ子を、少しでもそのスパイラルから抜け出させてあげたい、と思ったとしても、
家庭外からのアプローチとなるとなかなか一筋縄にはいかないがゆえに、
どうにか学校の中をまずは「複尺度化」していくのがまずは必要なのかな、ということも考えたりしたのでした。

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