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雪降る中で考えた、「冗長性」ある田舎と「コスパ」がいい都会の話。

2日連続、雪の話ですが。

今日も一日中降ってて、そろそろよけた雪の置き場所がなくなりそうです。

今日で降り始めて4日目ですが、夜中の降雪量はたぶん今日が一番多くて、
今朝起きたら、昨日しっかり雪よけたはずの場所が、一日巻き戻したくらいに雪に埋まってました。

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厚みがわかりやすいようにちょっと雪取った後の写真ですが、
一晩でこの分厚さですからね。軽く20cmは超えてました。

車高が高いジムニーでも、しっかり雪を取ってないところにはもう進入できないくらい、4日間の累積もたまってきていて。

昨日多少晴れ間が見えて、ようやくこの大雪も峠を越えたのかなあと思ったところに、この冬一番の降り方だったので、軽く絶望しました…。

まあ絶望とか軽口言ってられないくらい、いよいよ生活への影響も無視できなくなりつつあります。
手作業ではそろそろどうしようもなくなりつつあるレベルだし、これ以上降られるといよいよお手上げかも、みたいなところもある。


でもなんだか、昔からここに住んでいる人たちと話していると、
確かに「大変だね」って喋り合ってはいるものの、
「どうしようもないってまでではないね」ぐらいの話しぶりで。
実際、大きな機械を持っている人が地域内の独居世帯とかを回って除雪していたり、
場所が広くてどうしてもキツいな、というところにも、機械を融通し合ってちゃんと助け舟が来ていたり。

昨日も書いたとおり、一人の力じゃない、みんなの力で乗り越えている感じがするんです。
それぞれが「頼り方」「頼られ方」を知っている、というか。

他人に頼らざるをえない場面もあるけれど、だからといって特定の人が悲鳴を上げるくらい負担をしょっている、というわけでもなさそうだし、
まずは自分でどうにかする、
それでもどうしようもなければ誰かの力を借りる、という具合に、
自然と「自助」「共助」のバランスが働いているような気がするんです。


誰からしても結構厳しい環境なはずなのに、その中でこういった「自助」「共助」のバランスがしっかり働いているのはなんでなのか?
それはひとえに、普段から育まれた密接な関係性もありますが、
一方で、田舎という環境に埋め込まれた「ナチュラルな冗長性」みたいなものもあるんじゃないかな、と感じています。

年によって降るか降らないかわからない雪に備えて、でっかい除雪機を何台も用意しておく、というのもそうだし、
組織の人の配置のされ方とか、そもそもの人口密度とか、
都会的な物差しにそって考えると、なんだか「効率が悪い」と見られちゃいそうなことが田舎にはいろいろあって。

でも、こういう有事のときには、それが「冗長性」となって、
困ってもお互いに「助け合う余裕」を生み出してるんじゃないかな、と思うんです。


逆にいうと、平時に最強のコスパを求めようとすると、
こうやってなんかあったときに、誰にも「助け舟を出す余裕」がないから、
いろんなことが動かなくなってしまう。

東京で1cmでも雪が積もると「交通障害が…!」と大騒ぎになるのは、
別に東京の電車が特段雪に弱い、とかいうことではなくて、
「寸分の狂いもなく高頻度で走ることが当然になっている交通機関」と
「交通機関が寸分の狂いもなく高頻度で走っていることを前提とした人々の動き」に無理が出て、
いろんなところでスタックしてしまうから、なんじゃないでしょうか。


平時はコスパが悪いけど、いざというときに冗長性があるシステム。
平時はめっちゃコスパがいいけど、何か起こるといろいろスタックしやすいシステム。
どっちがいい、というのはすごく難しいですよね。

冗長性があるにこしたことはないけど、その冗長性が求められるのって、割合的にはほんの一瞬だし、
なにより平時の効率悪さは、そもそもそのシステムの持続可能性を一気に下げてしまう。

何事もバランスとは言いますが、このバランスをとるのは相当難しい。
たぶん両方がまんべんなくあるほうがいいし、
コスパと冗長性のどちらかを切り捨てない、両方の視点を持てる地域が、「持続可能」な地域になっていくんじゃないかな、と思います。

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