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確かに、日常生活に不自由はないけれど。

パラリンピックが始まって、
昨日今日あたりはとりあえずNHKをつけっぱなしにしています。
(耳はラジオ)

車椅子ラグビー、最初はこれってラグビーか?!って思いましたが、
今日のオーストラリア戦見て完全に考えが変わりました。あれは完全にラグビーですね…。

ところで、
今日のデイリーハイライトでふと目が留まる瞬間があって。

それが、女子走り幅跳びの高田千明選手の特集でした。

目が見えない状態で走り幅跳びをする高田選手。
暗闇の世界で、コーラーと呼ばれるガイドの方の声だけを頼りに、
全速力で走り、ジャンプする。

その跳躍に、どれほどの勇気、恐怖心に打ち克つ心が込められているのか、
正直想像もつきません。
それでいて、4メートル以上を悠々飛んでみせる。

翻って、目が見えて別に走り幅跳びを跳ぶのに恐怖心とかは感じない私。
ですが、運動能力がへなちょこすぎて、たぶんそんなに遠くまで飛ぶことは不可能でしょう。
スタートする以前のハンデがとてつもなく大きいにも関わらず、たぶん普通に勝負したら普通にかなわない。

そうなると、そもそも「障害」って何?って感じてしまうんですよね。
日常生活に最低限必要な視覚や聴覚はなんとか持ち合わせているだけで、
よっぽど運動能力が欠けているのは、むしろ自分のほうじゃないか、と。


たとえば、私は小学生の頃から視力が悪くてずっとメガネ生活なのですが、
もしメガネがなかったら、日常生活を送るのにも相当支障が出るのは間違いなくて。

もしメガネというものが発明されていない世界線に生きていたら、
私もいわゆる「障害がある」という区分に置かれる立場になっていたのかもしれません。
たまたまメガネというものがこの世に生まれてくれていたから、
特に差し障りなく日常生活を送れているにすぎない。

そう考えると、いわゆる「障害」というものは、結局社会の都合によって決められているのだなあ、ということを改めて考えさせられます。
技術の発達や社会の側の在り方次第で、「障害」というものの線引きはいくらでも変わりうる。
そんなことを感じながら見ていた今日のハイライトでした。

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