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「苦痛の伴わない努力」は存在しうるのか?

こういうとなんかすごい嫌な人だと思われるかもしれませんが、
人生で「これめっちゃ努力した!」って言える記憶(出来事)があんまりない、というのはちょっとした悩みとしてあって。

いや、あえてそれっぽいことを探すなら、ないわけではないんです。

それこそ、高校受験の勉強はかなり根詰めてやったなーと思っていて。
受験直前の年末年始とか、授業がなくても毎日塾に通って、塾が開いてから閉まるまで、それこそ朝9時くらいから夜9時まで毎日勉強してた。

「『これって努力したな!』ってエピソードを教えて下さい!」
って聞かれたとして、この話を出して怒られることはたぶんないはず。
でも、これにしても、自分の正直な気持ちを言えば、
「努力した」という感覚は持てていなくて。

というのも、
周りの人もおんなじくらいやってたよね、というのもあったし、
なにより自分の中で、「やらされてる」という感覚が全くなかったから。

あのときは冗談抜きで、本当に勉強することが楽しかったし、
過去問解きまくって、点数が上がっていく、合格点相当という実績を積み重ねていく感覚が快感だった。


一方で、苦手なことはずっと苦手なままだったんです。
コミュ力は相変わらず低くて、
初対面の人に話しかけるのは今でも本当に苦手だし、
未だに雑談って何話していいのか全然分からない。

大学時代は「それで新歓大丈夫?」っていろんな人に心配されたし、
就職した会社も結局営業回りの苦手意識を払拭できずに1年でやめたし、
この期に及んでも、まずもって一発じゃ顔と名前が一致しない。

ビジネス本でよくあるような、
「口下手だった私が、上手に営業できるようになった〇つの方法」
的なやつとか、
「雑談苦手だった私が、人とコミュニケーションとれるようになった理由」
的なやつみたいに、
いわゆる「苦手」を「苦手じゃない」に変える
「できなかったこと」を「できること」に変えるのが努力なのだとしたら、
自分の人生の中で、特にあてはまりそうなことは思いつきません。


ようやく今日のタイトルの回収に入るのですが、
ここまで書いてきて、「自分って努力してないなー」と思ってしまうのは、
おそらく心の底に「苦痛のない努力など存在しうるのか?」という前提・概念があるからなんだと考えています。

高校受験はあまりにナチュラルに没頭してたから、そこまで「努力していた」感がなかったし、
営業回りとかに関しては、苦痛がいよいよどうしようもなくなる前には既にほっぽり出してた。

自分の場合「頑張れること」というのは、多少のしんどさや面倒くささがあっても、最終的にはおもしろみや夢中さが勝っていくもので、
それがないものは、「どうにか克服する」というよりも、「避ける」「やり過ごす」という対処法でしのごうとするようになっていて。

ただ、世の中一般的には、「苦手なことを避ける」「克服しようとしない」姿勢って、あまり良いものとは捉えられていなさそうですよね。

今でこそ、ジェネラリストになるな、凸凹でいいから強みを伸ばせ!みたいな論調も目にしますが、
いざ社会人として世を渡っていこうと思ったとき、それで許容される環境というのはまだまだ少数派のような気がしています。

やはり「努力」というと、苦手をなくす、マイナスをゼロ(プラス)にすることを指すほうが、社会通念としては一般的なのだろうなーと。


夢中になれることは、他の人がやろうと思わないところまで、突き詰めてやれたこともある。
でも、苦手なことはずっと苦手なまま。
これってやっぱり、「努力してない、怠惰な人」ってことになっちゃうんでしょうか…?

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