▪️自己の哲学的思考

例えば、恋愛を一つとっても、そこには各人の人生観や恋愛感といった何らかの価値観があり、その背後には哲学的思考が隠されています。哲学とは本来そういうものだったはずです。
そういった哲学的思考は、その人の住む社会の規範、つまり文化によって知らず知らずのうちに育まれているのです。文化は、それ程に日常生活の隅々まで浸透しています。たとえば、自分達が日頃何気なく交わす会話やちょっとした仕草にも、その人間を取り囲む環境やその人間が所属する国家や社会の持つ文化を吸収し 、知らず知らずのうちにその文化を反映し表現している。しかし、我々がことさらに生きているという事実を意識しなくとも生きていけるように、また七面倒臭い文法を知らずとも日常会話に窮する事がないように、文化の持つ意義を知らずとも文化に従って生きていく事ができるのです。
丁度それは、物理学の法則を知らなくとも自動車を運転ができるのと同じ事です。むしろ変な知識など持たぬ者の方が、上手に事を運転しています。法則を知るということと、法則に従い、法則を活用するという事は次元を、にしています。法則など知らぬ人間の方が、かえって法則を活用するのが上手だったり、悪党の方がよく法律を知っていたりする場合の方が多いのです。
それに、本に書かれた物理学上の法則などより、飛行機が空を飛んだり、船が水の上に浮かんでいるのを見せられた方がずっと説得力があります。しかしだからといって、そういった物理学の法則を無視したり、軽視していいという理由にはならないのです。

科学的な概念は、りんごが木から落ちるとか、ヤカンの蓋が蒸気で持ち上がるといった、ごくありきたりで、平凡な現象の背後にあって、それらの現象を決定付ける法則を身に付け出していく事を目的とした研究態度によってもたらされてきました。それは、日常的な思考の延長線上において、より洗練化していく努力の末の結果です 。そして、その過程で近代工業を起こし、産業を発展させてきました。しかし、そうした中で、我々は科学のもたらした果実のみ目を奪われ、その本質を見失っているのではないでしょうか。

テレビのスイッチを入れれば、好きな番組を見ることができるし、飛行機に乗れば、昔では考えられないような速度で好きなところに行ける。ネットでは欲しい情報が手に入ると思い違いをしています。手軽なモバイルで通信アプリで「出会い」までも手軽に購入することさえできるのです。しかし 、そうした便利さばかりに目を向け、自然界の調和を無視して、自分が利用したいようにそれを行使したならば、どんな結果になるのかは、現在の私達の日々の生活の中で、コミニケーション不足と伝達性のあいまいさによる究極の誤解。我々は、その結果のみの現象の雄弁さがもたらした 「人との繋がり」を軽視した付けを払っているような気がします。その事を反省すべき時期にきたのではないでしょうか。

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