学びてときに之を習う

急遽目の治療を行うはめになり、その諸々が落ち着いたので久々に文章を書いてみる。

まだ目の調子は万全ではないが、文字が読めるというのは嬉しいことである。聴力も同時に低下していたため、情報入力器官が二系統ダウンしている状態でいるのが辛かった。ましてや私は文字で情報を認識するタイプなので問題なく文字が読めることは本当にありがたい。

さて、大人の勉強をリスキリングと言い換えられて、学ぶことがまたコマーシャル化され、苦笑いをしている。
学びを続けることはとても大切なことだと思っている。しかし商業化されたサービスで消費者でいられる内の学びとはただのインプットだよねと思ってしまう。

なぜ学ぶかというはその人の置かれた環境に大きく依存する。
わかりやすいのは「学ぶこと」それ自体が目的となる、すなわち児童から学生でいる時期で、こちらに該当するものは学ばないといけないから学ぶ。ここでは学びはインプットに重きが置かれている。試験というアウトプットはこの場合において本来サロゲートエンドポイントなのだが、目的化することで「学ばないといけないから学ぶ」というトートロジー性の隠蔽に成功している。
それと対称的となる「学ぶこと」を設定するとアウトプットに重きが置かれる学びになり、こちらは業務と密接に関わるタイプの、いわゆる大人の勉強であると考えられる。

インプット主体の学びとアウトプット主体の学びの根本時な違いとして、主体性・自律性は大きな要素を占める。
属人性が高い業務においても基本的に労働市場において人材は代替可能である。その中で付加価値の提供ができることは、代替不可能性を向上させることにおいて有効な手段である。付加価値の提供手段として、設備投資などを行わないなどの理由から一番効率が良いのは業務内容に関連したことを学び、その知識を活かして仕事の付加価値を生むというものである。これがいわゆる効率化に繋がっていく。
この場合、知識そのものは基本的にその存在を知っていれば事足りるが、実戦に持ち込むには知識が存在していることに加えて、その知識にアクセスできる環境を有して、そしてそれをどう個々の事象に適応するかを判断する能力が必要であり、それらは独立した能力である。
さらに上記三つの能力以前に「どのような知識があればいいか」と全体に足りないものを選別するメタ認知能力がないとアウトプット主体の学習は徒労に終わる。このメタ認知能力があれば「何を・いつまでに・どのくらい」という目標をスケジュールにまで落とし込めるので非常に役に立つ。

このメタ認知能力については、インプット主体の学びのサロゲートエンドポイントである、試験を経ることて養われると思う。入学試験などの範囲が全体に及ぶものが適していると個人的には思っている。試験勉強の過程で、個別の存在であった学習内容が有機体としての総体であったと実感することが学びの主体としてのダイナミックな転回であると私は考えている。

アウトプット主体の学習は、何らかの効果を自らの手で成し遂げるという達成感に繋がりやすい。そのアウトプット主体の学習はインプット主体の学習の上に成り立たない。しかし、そのことがインプット主体の学習を行っている内は実感しづらいのが難しいと新人からのメールに返答しながら思う今日このごろである。

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