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《七つ、ふふっ.》

 子どもゆえの思い込み、というのはよくある。僅かな経験から思考するために生じるそれは、大人からみると可愛らしくも映る。

 例えば、小学二年生のわたしはアメリカよりも九州が、東京から遠いところにあると思い込んでいた。日本での記憶がないままにニューヨークへ移り、東京へ戻った際初めて耳にしたキュウシュウ。馴染み深いニューヨークより、真新しいその場所が外国であるように思えたのだ。(今これを書いているだけでも恥ずかしさが込み上げてくる。)

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 さて、先日小学生の女の子に「あっ、七五三だ。」と言われた。着物を着ていた時のことだった。

 直接わたしにそう声をかけてきたわけではない。一緒に歩くクラスメイトにこう話しかけていたのが、静かな通りだったため図らずも彼女たちの会話を盗み聞きする形になってしまった。(ごめんなさい!)言われた方の女の子も「うん。着物だからね。」と答える。こちらはちょっぴり自信がなさそうだ。

 このご時世でなければ「お洋服と同じで、どこへ着て行ってもいいのよ。」と言いたいところだった。その代わりにマスクの下で「ふふっ。」と笑う。そんなに若く見えるかしら?との冗談が飛び出るのもぐっと堪えながら。

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 そういえば、普段着る物とは違う「衣装」と着物を認識していたのは、あの年齢の頃のわたしも全く同じだった。七五三の時しか着なかった上に、とても窮屈なものに感じていたことを思い出す。帯はきつくて、草履は痛くて。

 それでも、茶道を始めたことをきっかけに、お着物を身につける機会を少しづつ増やしてきたこの頃。着るたびに、しずしずとその世界に魅了されるようになっていった。

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 まずは、平坦な日本人らしい顔が悪くないと思えること。まつ毛がくるんとして、鼻筋がすっと通った華やかなお顔はお洋服、とくにドレスによく似合う。ところが、のぺっとしたわたしのような顔もお着物は引き立ててくれるのだ。日本人には着物が似合う!と、鏡の前でひどく関心した日のことは忘れられない。

 また、季節を表現する愉しみも知るようになった。十二月には雪の着物を、一月には梅のそれを、先日は早春にふさわしく感じられた淡い紅梅色のものを選んだ。箪笥を開け、どれにしようかと迷う時からずいぶんわくわくとさせられる。

 さらには、受け継ぐことの喜びも。祖母や母のお着物を着られた時には感慨深かった。その姿を二人に見せると喜んでくれることもまた嬉しい。実は、曽祖母のお着物を纏った日もあった。一度も会ったことのない彼女。日本舞踊やお相撲を観ることが趣味だったと聞いたことはある。一緒にどこへ旅した一枚なのだろうと、この時初めて彼女の過ごした日々に想いを馳せた気がした。それも身をもって。

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 こうして、お着物がもたらしてくれる宝石のようなひと時を、ありがたくも体感できている近頃をふりかえると、大人になるっていいなとつくづく想う。経験が増え、学びと遊びの広がりを持てるということは。

 道ですれ違った小学生の女の子たちも、いつかお着物の魅力を知ることになるのだろうか。はたまたまた別の世界の深みに惹かれていくのだろうか。

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