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《初、夏.》

 「初めて」は小さなことでも記念日になる。初めて自転車に乗れた日、お小遣いで母に誕生日プレゼントを買った日、図書館で本を借りた日。どの日のことも、その時の心臓の鼓動を思い出すことができそうなほどに、鮮やかに記憶されている。

 雨多き立夏。ふいに晴れの日曜日が訪れる。いつものお散歩道では、骨董市が開催されていた。新緑の甘い香りの中、足早にあのお店へと向かう。お着物の露店だ。ここの前では以前から足を止めていた。ところが、秋から春にかけての寒い時期に身につけるお着物は、祖母や母のものがいくつか家にあったため、素敵と思っても購入は見送っていたのだった。

 ところが、今回「夏の着物」が必要となった。昨年末から、茶道を始めたためだ。いよいよ立夏を迎え、今まで来ていた袷(あわせ)のそれが着られない季節が迫っていた。着物には10月〜5月が裏地のついた袷(あわせ)、6月と9月が単衣(ひとえ)、7月と8月は透け感のある絽(ろ)といった大まかな決まりがあるらしい。

 これまでは袷の季節だったために、箪笥を開ければ間に合っていた。ありがたいことに祖母が、祖母自身や母のために買い揃えていたものを「着ていい」と言ってくれていたのだ。それでも、夏物だけはそこに眠っていなかった。

 とても高価なお着物。到底わたしには手が出せない。リユースでなんとか夏物を手に入れなくてはと思っていたところだった。



 まず目についたのは薔薇の柄の浴衣。濃淡のあるピンクのお花が可愛らしい。なんとなくいい予感がする。続いて、藍色の涼やかな生地が目に入る。広がるブルーシートの左側に移動してみると、これまた涼やかな帯に目が留まる。真っ白にテッセンのお花がグレーのようなブルーのような色で描かれたものだ。「ふんふん。」と頭の中でコーディネートを思い浮かべる。藍色のお着物に白の帯。ピタッとはまった感じがした。

 「すみません。こちら見せてください。」と商売っ気がなさそうに、お着物に囲まれ座る女性に声をかける。「どうぞ。」と返ってきたのは、想像よりも朗らかな声だった。藍色のお着物を広げ、鏡の前で羽織ってみる。よく見ると燕(つばめ)の柄をそれはしていた。テッセンのお花の白い帯と合わせるとやはり完璧だ。ところが、お店の方が左肩のサビに気づく。「これはおすすめできない。」とあっという間に引っ込めてしまった。少々気落ちしながら、また着物の山に視線を落とすと、別の「絽(ろ)」のお着物が目についた。こちらは先程のものよりも少しだけグリーンがかっている。紅葉と流水文様が透けて見える。

 そちらも鏡の前で羽織ってみる。燕柄の方が夏らしくてよかったけれど、こちらのお着物は色合いがとても綺麗だ。「よし、これにしよう。」と決め、お値段を伺う。これで、三点買えるなら!というそれにも関わらず、勇気を出しさらに値切ってみた。嬉しいことに、千円お安くしてくれることに。三点というのは、薔薇の浴衣も買うことにしたからだった。

 初めての「着物のお買い物」。やはり鼓動は早くなっている。自分で選んだことも、お値段を交渉したことも、これから身につけることが愉しみで仕方ないことも、その全てがどきどきの理由になっていた。


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