マレーシア、違和感と旅行ビジネス
「まずね、うちの国はクソみたいな国なわけよ」
そんな悲しい言葉で始まる会話があるだろうか。
「うん」
散々彼女の国の『クソさ』を力説されたあとなので、とりあえずうなづいて先を促した。
はじめに
日本以外の国の人と友達になると、ついついやってしまうのが「教育制度の比較」である(コミュニケーション能力が高い人はもうちょっと楽しそうなことをすると思う)。国毎にかなり違う制度を持っているが故に、明らかに違うそれらを比較するのは結構楽しいし、こういう話で盛り上がれるということは話が合う人を見つけたということにもなるからだ。
最初のわだかまり
少し話をそらそう。私の高校では、2年生の終わりにシンガポール修学旅行というものがあった。修学旅行といっても完全に観光という訳でもなくて、中途半端な学校交流と中途半端な観光という旅程の、全ての方向に配慮したことが覗き見える旅だった。
プログラムの途中に、「マレーシア農村体験」というものがあった。マレー語をしか話せない農村に行って、言葉が通じないその村で現地の生活を経験してみよう、という趣旨のもので、多分「言語が通じなくてもコミュニケーションを取ろうとする姿勢の大切さ」と「価値観が違う生活が存在すること」を学ぶのが学習の目当てだったのだと思う。学習の目当てを想像する方が学習がしやすい。とにかく私も例外なくグループの子と農村に放り込まれて、自分が知っている言葉が通じないお婆様からカレーや家庭料理をもらって、床に座って手で食べた。そういう文化適応を学ぶ必要があるのだな〜とプログラムの目当てに思いを馳せていたら、その家に若い少年が帰ってきた。彼は制服らしき洋服を着て、床に座って手で食事を取る私たちを一瞥したあと、お婆様とマレー語で二言三言交わして、机に座ってスプーンとフォークを使ってご飯を食べ始めて、お婆様もそれに追従した。
それをみて思った。これは「外国人のために作られたマレーシア経験」なのだと。旅行計画の途中から勘づき始めたのだが、この旅行はかなり旅行代理店の提供する枠組みにしたがっていて、彼らの作った枠の中で高校交流に行ったり、「現地での生活(クオーテーションマーク付き)」を経験したりできたわけだ。
そう思って、少年に英語で話しかけてみたら、普通に英語が通じた。彼は少し時間のかかる都市部にある学校に通っていて、そこは英語が公用語なこと、教育は英語でなされていることが多いこと、この農村はこういう受け入れをよくやっていたことなどを教えてくれた。その上、過去の「わたしたちみたいな」学生がおいて行ったお手紙の類を見せてくれた。都内のそこそこ有名な学校の修学旅行生たちが、感謝の言葉を記したイラストのようなものだった。
そういう「現実と対応していない」マレーシアのイメージを押し付けてロールプレイングさせて、かつ高校生に経験させるのは、全ての面においてどうなのかな、と思った。実際に彼らがそういう生活をしているなら良いけれど、実際のところは既に彼らの生活様式は変わっていて、わたしたちがみているのは「旅行代理店が投影したいマレーシアの農村像が投影された虚構」のように思えた。
4日くらいあった修学旅行で、それを最も強烈に覚えている。
それから3年
それからおおむね3年が経ち、冒頭の会話である。英国の大学に進学した私の社会学理論入門の同じクラスには、マレーシア国籍の子が2人いた。社会学の試験勉強をするという口実で授業外に集合した私たちは、結果として雑談を始めた。なんやかんやで教育制度の話をしている中で、上記の経験を思い出して、実際にそういう生活が送られているのか彼女たちに聞いたのである。
彼女たちの答えはさっぱりしていて、「多分マレーシアのゲットーか何かに送り込まれたね」である。ゲットー。「そんな生活してるとこ、今時ないよ」と。私の答えもわかったもので、「だよね〜」である。
「手で食事を取る」と言う伝統文化が残されていると想定された農村部を訪ねていくことは、広いマレーシア社会の一部を見ることにしかならない。その上に、その伝統文化は都市部の子からすれば、あんまり普遍的なものではないみたいだ。
そこから、マレーシア社会の話になった。
マレーシアという国は、マレー人がマジョリティを占めるイスラム教の国である。一方で、マレーシアには華僑と言われる中国人人口が10%くらい暮らしていて、彼女たちはマイノリティとなる。私が話していたのは、マレー人の富裕家庭の子と、中国人の富裕家庭の子である。ロンドンに留学する人は大抵そこそこお金がある人だけど、その中でも「自分が富裕家庭出身である」とわかっているお金持ちと「自分が普通だと」思っている超絶お金持ちがいて、彼女たちは前者だ。
彼女たちによれば、マレーシアという国は都市部の発達と田舎部の発達に差が大きく、公用語はマレー語だがある程度の収入があれば英語を学ぶ人が多いこと、一方で教育制度が非効率的なことを教えてくれた。中学から大学に進む間で、「高等学校卒業証明書」みたいな証明書が必ずしも出ない試験が存在し、それが勉強の効率を悪くしていること。そして英語ができるエリート層は、大学に進学するタイミングで国外に出ていくこと。
彼女たちの話が正しいとすれば、都心部で英語を学び英語で授業を受けていた農村の少年は、そこそこ富裕層だったのでは無いだろうか。何を思って「海外修学旅行ビジネス」に参画していたのだろうか。
なんとなく後味の悪いような、そして3年経って答え合わせをした後でも、なんとなく解決しないような感触の残ったエピソードだった。
おしまい。
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