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【読書感想文】「何も共有していない者たちの共同体」アルフォンソ・リンギス

数年前にTwitter(当時はまだTwitterだったのだ!)で流れてきて買った。数年経って哲学ブームが再来したのでようやく開いた。

難解な本だ。哲学を踏んでいる人はきちんとわかるのだと思う。アリストテレスのbarbarianとかの考え方を下に敷いている部分があるないうことくらいしかわからなかったので、哲学をきちんとやった人はもっともっと深く他の書物との連関がわかったはずだ。

それでも一応力づくで読み解いたので、考えたことを記しておこうと思う。理解度は40%くらいといっても過言ではない。


要約するのであれば、二つの点を挙げなければならないだろう。

第一に、合理性の共同体と合理的ではない(Not rationalという意味で、合理的以外の全てという括りかたの方が正しいかもしれないの)共同体という考え方。今日の社会は、「理論的に物事を説明し発生させる」という考え方を用いることで合理的であるということを共通様式とし、個々人の中に内面化するように形成されてきた。一方で、生きるということの中には、筆者が「雑音」と称するような、合理的ではなく、また合理的な言語では拾い上げられない/拾い上げることを想定していない、しかし生きるという行為はそういうところにありますよね、というのが前者だ。

その上で、第二に、一度社会への分析を離れて、人生というものにフォーカスが置かれる。生きるということと、そこにいる他者の存在はどう知覚されれば良いのだろうか?

「私たちの実体は、自らを支えている位置の不確実性を近くし、自らの行くてにある可能な位置を感知し、自らの力で、その可能な位置に自らを投げ入れる能力を知覚することによって行動する。…行動によって存在するということは、私たち自身を、自分自身の力で、無能であるという結末の中に投げ込むことである。」

p.201

同時に、その人生においては、他者というものの存在が必要である。それは私たちが常に「すでに死んでいったものたちが持ちえた可能性」を追いかける形で生きているからであり、また私たちが将来に向かって投機する中で切り捨てられた可能性もまた死んでいくからである(p.203)。その点において、人は確かに共同体の中に存在している。そうして死に向かって徐々に傾いていき、最後に死を迎える。そこには何一つの可能性すらも残されていないが、他人の死に立ち会うことで、人はまた「死ぬ」ということを体感する。体感するだけである。

それは合理的ではない共同体の根底を流れる、本質で温かい生きる喜びがあるから感じられる喪失なのだと思う。


その根底には、「人が死ぬときに人に寄り添うのはなぜなのだろうか?」という問いがあり、その回答はおそらく「人は合理的ではない『生きる』に根差した共同体の構成員であるからである」になるのかと思った。


UCLで西洋中心主義とかModernityとかにアレルギーレベルでセンシティブになったと思うけれど、西洋文明の文脈からその外側の世界を眺めるということは、いわゆる野蛮的なイメージを投影せざるをえないわけではなく、単純に「新しい・知らない世界を除く」という体験なのだと思った。

合わせて、「自分の社会が合理的思考で成り立っている」と仮定する論調は、果たしてそうなのだろうか?と思ったところでもあった。


普通に難しかったので数年後にまた読みたいと思う。

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