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【読書感想文】「白いお城と花咲く野原」 見田宗介

こんな可愛らしいタイトルに反して、1980年代の朝日新聞に出ていた書評をまとめた本である。大学の課題の一環として読んでいた学術書がいつの間にか日常を侵食するようになり、その過程で「思想」や「歴史評論」等の日本語雑誌を読むことに抵抗が無くなったと同時に、日本の哲学というもののを知らなかったことを強く意識した。それは政治哲学をざっくりさらったときに感じる欧州における全体主義への反省のようなものすらも、私は日本に対して持っていないということで、同時に日本の大学で政治学をやっていたら触れていたのであろうものだと思った。

ともなって、1980年代の日本が、つまり冷戦中で経済成長もしていた戦後日本という国がどのようなことを考えていたのかを知りたいと思って、東京駅の丸善で手に取ったのがこの本であった。

哲学書だ。正直去年読んだ時は難しすぎてよくわからなかった。今年は60%くらいになった。正直まだわからなかったところがいっぱいあると思う。「図式はいつでもジョークに過ぎない。ジョークが真理を語るのと同じ方法で、図式は真理の切断面を語る(p.147)」。は? 図式化された事象というのはその事象の特定の側面だけを切り取って平面的に(i.e.他の側面や時間など定型化できないものとの関係を含めることなく)表現するということだと思うが、哲学の言語はパンピには難しすぎる、と政治学の言語を操る女は思う。

村上春樹「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」とか、大沼保一「単一民族神話の起源」みたいな過去に触れたことのある書籍もバラバラ出てくる。

全体を通して感じたのは、80年代という時代が社会という全体と外に向かった成長を追い求めることに疑問を感じ始め、個人の可能性と生活の方法の転回(方向性を大きく変えること)を検討し始めた時代であったということだ。これは当然のことながら、西洋におけるモダニスト的な成長の捉え方への疑問、後にリスク・レジリエンスやComplexityといったような理論の前提となる疑問である。リスク・レジリエンスの根本にあるwicked problem(明瞭にその原因・性質を定義することができず、しかしその定義によって理想的な解決方法が異なってしまう性質のある問題)の論文が1973年に出たことを思えば、場所を問わず同じような問いかけが世界各地で起こっていた、そんな時代だったのだろうかと思う。それは農業と都市・地方の断絶を問いかける論評で、アイデンティティの定義で、家庭の制度や社会構造と労働への問いかけで見られる。これからの生き方はどう構築されるべきなのだろうか?それは40年経った今日のアカデミアでも問いかけ続けられているように思える。

一つ言うなれば、戦後意識というものを捉える二つのチャプター「歴史の鏡・文化の鏡」「欲望する身体の矛盾」において、これが哲学の力かと思ったものがあったので抜粋しておきたい。

「どのように科学・技術が発達しても、文化・文明が体を変質しても、人間は動物である。動物措定の欲望は残る。欲望の矛盾も残る。人間のわずかな理性と自由意志とができることは、欲望の矛盾を矛盾であるままで、相からそう情勢に転回すること、生きる矛盾を醜い連鎖から、美しい連鎖へと転回することだけである」

p.124

それは生き物としての生きるという欲望と社会の中で他者を思い生きるという理想の矛盾を踏まえて(臓器移植の例が引かれている)、生きるという欲望を封じ込めるのではなく、他者を思いやるという方向性に取り込むことでその矛盾を解消しようとするものであり、非人間的であったナチスの行動の反省の上に(ある程度の)多民族国家を作り出そうという大統領演説でもある。それは転回という行為を通じて物事の捉え方を変えてしまう、哲学者にしかできない提言なのではないだろうかと心に風が通ったような気がした。

もう一つ言うならば(これで最後だ)在日韓国人のルポルタージュを通して、筆者はこんなことを言っている。

関係の磁場がことばの意味を逆転するのだ。

p.234

それは民族意識に縛られることなく「普通に(クオーテーションマーク付きの)」生きたいと願う在日韓国人に対して著者が理解の念を示すと言うことは、結果として過去の帝国主義者たちと同じ方向性の意味合いを持ってしまう(朝鮮民族として、もしくは各々のアイデンティティを軽視し、蔑視する姿勢を示す)と言うことだ。

これは非常に胸のすくような指摘で、だからこの本は「明晰な」と解説で評価されているのかと思った。それは今日マジョリティーの日本人として歴史問題を捉え理解しようとする姿勢にも、同じように影をおとす問題である。

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