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【日記】アイデンティティ?

’Wait, are you speaking to me?’(ちょっと待って、私に話しかけてる?)

そこそこよく発するフレーズの一つである。そして、大抵の場合以下が続く。

'If so, I only speak English and Japanese' (そうだとしたら、私英語と日本語しか話せないんだ)

そこで会話が終わる。

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私の外見は、アジア人である。茶けた髪(それもあんまり美容院に行けないのでちょくちょくプリン化する)、重い一重の瞼、黄色めの肌。日本人っぽい化粧。メガネがそれを強調している気もする。伴ってなのか、同じ言語を話す同胞人だと思われて、街中で日本語以外の東アジアの国の言葉で話しかけられることが大変多い。おそらく(と言っても私は日本語と英語しか操れないため、想定に過ぎないのだが)道を聞かれたり、大学でトイレの場所を聞かれたりしているのだと思う。大学の授業の前に、隣に座っても良いか?みたいな感じで話しかけられることもある(再度、実際のところはわからない)。問題なのは、知らない言葉で話しかけられると、話しかけられていることや、相手にとっての会話が始まったことがわからないことである。全ての会話が「こんにちは」で始まってくれれば、「ここが会話の始まりだな」とわかるが、そう言うわけでもないから、冒頭の会話のようなことになるわけである。

大抵、英語で話しかけ直すと、「じゃあいいです……」と言う感じで相手が引いてしまうことが多い。相手の問題は解決していないし、英国の大学に来ていると言うことは、基本的な英語能力はあるはずだから、何だか寂しくなってしまう。

同じく不思議なのが、日本語ではそれが生じないことである。ロンドンには日本人が多く住んでいて、店員さんとして働いている人が日本人だった、と言うことも少なくない。化粧品を買いに行ったとき、全く日本が関係ないお店で、日本食のレストランで、相手が日本語を話せることはあり、そう言う時には必ず英語で会話が始まって、段々「この人日本語が話せるのでは……?」と薄々双方が感じ始め、会話が日本語になるときもあれば、英語のまま終わる時もある。

しばらくもやついていて、この違和感(自分が「話せる」と想定された、しかし全く知らない言語で話しかけられた時に感じる違和感)、日本国内で英語で話しかけられた時のそれと同じなのではないだろうか、と思った。数年前まで、つまり感染症が拡大して国際旅行ができなくなる前までは、路上で外つ国からの方に道を聞かれる時の言葉は、日本語よりも英語だった気がする。日本語はおおむね日本にほとんどの話者が集中している言葉であるのに対し、英語はそこそこ世界共通で話されていると言う点において、英語と日本語を比較するのは適切ではないかもしれないが、「郷に入れば郷に従え」の理論が無視されている例ではある。

この違和感は、果たして「自分がわからないもの」をぶつけられたことに対する不快感なのか、もうちょっとナショナリズム的なものなのか、はたまたアイデンティティに対する何かなのかーどこかで書いたように、社会学的には、アイデンティティというのは他者と自分を正しく識別するために存在していて、「間違った言語で話しかけられる」というのはつまり、「自分が正しく識別されていない」ということの隠喩になるのではないか?

広い広い学問の世界だから、きっとどこかにそれを説明する理論があるはずだ。きっかけをどこかで拾えたらいいのだけれど。


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